砂の町[4]
アヴラルの必死な眼差しに屈したシャルは、ご機嫌のユージュを伴って孔衛団の館へ向かうことになった。
やはりアヴラルを宿に置いてくるべきだったと何度後悔したか知れない。この子が原因で最近は必ずと断言してよい程、災難に遭遇しているとシャルは強く思う。
内心、頭を抱えたい思いでシャルは、孔衛館の入り口をくぐり抜けた。重厚な石壁を半円状にくり抜いた入り口の両脇には鮮やかな緑の旗が飾られている。建物の規模は想像したよりも狭く、安場の娼館とほぼ変わらぬ外観で、内部もそう差異がなかった。恐らく自警団が結成される前に娼館として利用されていたのだろう。
その名残を留める楕円形の窓には現在、綱型の細い鉄格子がはめられている。ふと頭上を確認すると、昔は鮮明な色彩の天井画が描かれていたのだろう痕跡が見受けられた。煤けて色褪せた天井画の精霊が、来客であるシャルを静かに見下ろしていた。
入り口の真正面に受付らしき一画が設けられており、向かって左側には上部へ繋がる階段や通路、別室への扉があった。右側には幾つもの衝立が並び、訪問者の視線を遮る役割を果たしている。受付の奥にもやはり衝立が用意されていて、内部を窺う事は不可能だった。
シャルは素早く視線を一周させ、最後にもう一度受付を眺めた。光沢のある布をかけた文机の前に屈強な体つきをした若い男が端然と腰掛けていて、こちらを睥睨していた。男の背後には槍と剣が数本立て掛けられている他、書棚が設置されており、そこに数冊の書物と台帳が並べられていた。
文机の横には火急時に鳴らす小型の鐘がぶら下がっている。シャルは小首を傾げたあと、腕に抱えていたアヴラルを石床に降ろして受付の男に近づいた。男の視線は一度たりともシャルから離れなかった。
「臨時の兵を募っていると聞いた」
「餓鬼連れの女ではなく、兵士をな」
禿頭の若い男は胡乱な目でシャルを見つめた。シャルは静かな口調を崩さず、更に言葉を紡ぐ。
「私は兵士ではないが、狩りの経験ならばある」
「魔物狩りに観客は必要としていない」
シャルは男の目を覗き込み、頭部を覆っていた布を外した。話して聞かせるより、目で確認してもらった方が早い。シャルは呪術師としての特徴を、型通りといってよい程身に宿している。白髪と紫の瞳。顕著な徴である。
シャルを見る男の目が変わった。じっくりと検分するような色が浮かぶ。
「いい目の色だ。階級は」
「私は兵士ではない。階級という階級は持たない」
「だが、呪術師にも一応、階級制度が用意されているはずだ」
「苑都の基準に照らし合わせるのならば、私の階級は斗糸となるだろう」
男の目が更に変化した。今度はシャルの言葉に半信半疑といった様子だ。さりげなく背後に立っているユージュからは驚きの気配が伝わる。
本来、呪術師には明確な階級が定められていない。だがそれでは不便と、白苑の国の中枢である苑都が暫定的な階級制度を呪術師達に強要した。この安易な制度によって、呪術師の力量は十段階に区別される事となった。源紫(げんし)、弐視(にし)、斗糸(とし)というように。シャルに言わせれば馬鹿げた制度に他ならない。呪術師は各々が抱く呪力の形が全く異なるのだ。風を支配する者、水を自在に操る者、空間を捻る者。千差万別の呪力が存在するというのに、その中で一体何を基準とし、上下を決定づけるのか。
それでも、兵士達にとっては呪術師の力量を知るのに必要不可欠であり、また選別しやすい制度であるらしい。
余談だが、シャルの斗糸は上から三番目、という事になる。上位の呪術師、という証である。上位に掲げられる源紫、弐視、斗糸の三席は、シャルのように呪力の純度を示す目と髪の色を身に宿す事が第一の絶対条件とされる。
「斗糸の使い手が、なぜ傭兵の真似事を」
「事情の説明が必要か。私はこの館で呪術師を募っていると聞き、訪れたのだが」
男は思案しているようだった。視線がシャルから背後のユージュへと移る。
「その女は」
答えたくない。
が、アヴラルとユージュの必死な視線が背に突き刺さるのを感じ、渋々口を開く。
「私の連れだ。呪術師が必要なのだろう?」
「その女も呪術師か」
シャルは頷いた。
「――試験が必要ならば、今、術をお目にかけるが」
「いや……いい。斗糸の術を食らいたくはない」
受付の男はようやく、笑みを見せた。
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「助かったわ」
孔衛館で雇用の契約を交わしたあと、シャル達は一旦それぞれの宿に戻り、荷造りをする事にした。契約中は、館の方に殆ど滞在せねばならないのだ。
荷物を引き取りに向かう途中、意気揚々といった様子でユージュが礼を述べた。
「でも、まさか斗糸なんて」
「どうでもいい。私が決めた階級ではない」
「羨ましい、って言っているんだけれど」
「そうか? この力のせいで、否応なく魔物狩りの参戦を命じられたから、いい思い出はない」
「贅沢ねえ」
ユージュは溜息を落としたが、果たして魔物の子と命を共有していると知ったあとでも、羨望を抱き続けられるだろうかとシャルは皮肉に思う。贅沢か。贅沢すぎて、胸焼けしそうな運命を背負わされているが。
「贅沢よ。望んだって手に入らない力だわ」
ユージュが振り絞るように言葉を紡いだ。別の環境で育ち、それぞれの道を歩んできたのだ。シャルには無関係な恨み言であり、見当違いの嫉妬だった。
非情であろうが、責めを受ける謂れはない。
「呪力は生来のもの。手中にできない者がいるように、望まずとも身に宿す者もいる。私にとっては、この力により失ったものの方が大きい」
冷ややかな口調でシャルが答えると、ユージュの目に憤りが浮かんだ。
「その考えが傲慢ね。力を否定するから、失うものが増える」
「逆だ。力に固執しすぎるからこそ、他のものが犠牲になる」
ユージュは嫌な笑いを浮かべた。決してシャルの意見に賛同を示したのではない。意見の相違は延々と平行線を辿る。
「勘違いをしてもらっては困る。私は、呪力を不必要なものと捉えているのではない。活用はする。しかし、呪力のみを頼りとしては自分を見失う」
そのためにシャルは剣技を覚え、体術の稽古を続けていた。向上心に支えられた信念ではなく、ただひたすら生き抜くための努力だ。
「そんな言葉、力のある者だからこそ言えるのよ」
「ユージュ」
シャルは静かに名を呼んだ。ユージュは唇を噛み締め、険しい眼差しを足元に落としていた。
「……あのっ」
突然、シャルの手を握っていたアヴラルが、声を上げた。
「シャルは強いですけれど……、でも、とても疲れる事があったり、傷つく事もあって、ええと、望むものというのは、人によって違いがあるんだと、思います。どの望みが素晴らしいか、価値のないものか、それを決めるのは、きっと、自分だけで、あぁ、うう、ええと」
最後の方は混乱した呻き声に変わっていたが、シャルは苦笑した。何を考えたか知らないが、恐らくシャルの弁護をしようと試みて、言葉が支離滅裂になったらしい。結局、助けを求めるような顔で、シャルを見上げている。
「……何か、力が抜ける子というか、……見た目と落差のある子ねえ」
ユージュが複雑そうな顔で呟いた。
「あの、力とか、決して手に入らなくても、願い続けるのはとても大切な事だと思うんです。願う分だけ、望みに近づけるような気がして。そんなふうにずっと思い続けていたら、きっと別の大切な事が見えてきたり」
「アヴラル」
「はいっ」
「ふぅん。お前はじゃあ、何を願うわけ?」
シャルは意図して、ユージュの心情を紛らわせるため、軽口を叩いた。理解し合えない事柄についていつまでも口論するより、気分を解きほぐす話題に花を咲かせる方が余程建設的だった。
「えっ? 僕ですか」
なぜかアヴラルは大仰に飛び退いた。反応がおかしい子だ。
「ええ、うぅう、うう」
「なぜ吃る」
「う」
「なぜ赤面する?」
「うぅ」
鮮やかな緑色の目が忙しなく瞬き、潤んでいる。一体どのような願いを抱いているのか、知るのが恐ろしい。多分、シャルの想像を別の意味で超越した、奇抜な願いに違いない。道端の野花と歌を歌いたいとか、あるいは意表をついて鳥と共に大空を駆け回りたいとか。ありえそうで、怖い。いや、精悍な男になりたいという願いだったら笑えるな。無理だ。
「意地悪な保護者ねえ。あたしが遊んであげようか」
ユージュが話に乗り、唇をつり上げて笑った。ぎょっとするアヴラルの頬をつるりと撫でる。アヴラルが更なる奇声を上げて、凝固した。
よく分からぬが、腹の立つ反応だ。シャルはつい、アヴラルの頬をつねった。
「!?」
アヴラルが泣きそうな顔でシャルを見上げた。
「暴力はいけないよねえ」
ユージュが声を上げて笑いながら、落ち込みかけていたアヴラルをぎゅっと抱きしめた。再度絶叫に近い奇声を発しつつ、ユージュの腕の中であわあわともがいている。
その何とも疲れるじゃれ合いを見て、シャルは眉をひそめた。一応男なら、女に抱きつかれた時くらい喜ぶべきだ。
などと呆れつつも、実際アヴラルが喜びを示した場合を考えると、妙に腹が立つ。
ようやくユージュの魔の手から抜け出したアヴラルが、真っ赤になりつつも必死な様子でシャルに飛びつき、急いで背に隠れた。お前は思春期の少女か。
「面白いわー。ねえ、その子、何なの?」
「子犬」
シャルは思わず、即答した。背にしがみつくアヴラルがびくっと震えたが、知ったことか。
「……人間よね?」
「子犬だと思っておけば、間違いない。言動も態度も似たようなもの」
ユージュの爆笑が響いた。
●●●●●
ユージュと別れたシャルは、宿の部屋で明日の支度をした。
その後、大人しくなってしまったアヴラルを連れて、宿の食堂に足を向ける。
適当に注文し、腹を満たしてから、軽く湯浴みを済ませて、就寝の用意をした。アヴラルがもの言いたげな表情をして、シャルの行動をちらちらと眺めていた。
「何?」
シャルは寝台にだらしない格好で寝転がったあと、アヴラルへ視線を向けた。
「あの、明日から、お仕事ですか」
「そう。お前は連れて行けないよ」
流石にアヴラルを寄獣狩りには同行させられない。この子は凶悪な魔物にでさえ同情を示しそうだ。いや、アヴラルも一応魔物だったか。
「……」
「その不満そうな沈黙は何?」
「駄目ですか?」
目に涙を溜めて、アヴラルがじいっと見つめてくる。シャルは顔を引きつらせつつも、首を振った。
「駄目。お前の身は、ユージュの妹に預かってもらう。向こうも、妹一人残して数日を空けたくないと言っていた」
何しろアヴラルの容姿は目立ちすぎる。知り合いの者以外にアヴラルの世話をまかせる気にはなれなかった。
「大人しくしますから……」
「却下」
何とも切ない表情でぐっと奥歯を噛み締めるアヴラルを見ている内に、シャルは得体の知れぬ疲労感を覚えた。
「邪魔をしませんから。お願いです」
ああ、またこれだ。この目だ。シャルは頭を抱えたくなった。居丈高に同行させろと命令されれば、一発殴って黙らせることもできるが、切々と物腰低く訴えられるのはたまらない。ある意味、恐ろしくたちが悪い。
「駄目なものは駄目。いざという時、お前の面倒までは見られない」
「……」
泣くか。泣くのか? シャルはがくりと項垂れた。
「泣いたら永遠に放置するよ」
シャルの冷たい一言で、アヴラルがひくっと肩を震わせた。悲嘆の気配を濃厚に漂わせつつ俯くアヴラルの横顔に、淡い色の髪が垂れ落ちる。儚く消えてしまいそうな風情だ。
「シャル、心配です」
私はお前の方が心配だ、とシャルは胸中で虚しく独白した。せめてもう少し、ふてぶてしさを身につけるべきだ。そのしとやかさは異常だ。
「怪我とか、しては、嫌です」
「あーはいはい」
「数日も、あちらに滞在するんですか」
「そう」
「危険なこと、あるんじゃ……」
そりゃ寄獣狩りだしな、とシャルは思ったが、口に出せば余計に泣きつかれそうなので、踏みとどまった。
「……シャル」
「何」
ぎくしゃくとアヴラルが近づいてきて、寝台に寝転ぶシャルをまたもじいっと見つめた。魔物の子とは思えぬ稚さに、シャルは激しい目眩を起こした。
「無事に、戻ってきますか」
「多分」
「……!」
その裏切られたような衝撃的表情は何だ。
「怪我をしないで、無事に帰ってきてくだ……」
と、言葉の途中でアヴラルは、とうとうほろりと涙を零した。シャルはもう、このまま気絶するように眠りにつきたかったが、はらはらと涙を落とすアヴラルを放っておくわけにもいかなかった。放置すれば、間違いなく夜明けまでじくじくと泣き続け、挙げ句、シャルには到底理解不能な思考に溺れ、精神を別世界まで飛ばすだろう。
なぜ私が魔物の子を慰めなくてはならないのだろう、と理不尽な思いを抱きながらも、シャルは溜息と同時にアヴラルの柔らかな髪を掴み、引き寄せた。
アヴラルのひたむきな眼差しが、シャルを映している。見慣れているはずなのに、はっとしてしまうほど美しい。
「簡単にやられるほど、私は弱くない。大人しく待っていなさい」
そう告げると、アヴラルはおずおずといった態度で、シャルにしがみついた。複雑な心境ではあったが、意識が束の間、取り戻せぬ過去へと飛ぶ。色褪せた昔の一幕。郷愁の念なのか。シャルがクルトの徒として否応なく駆り出される度、弟が泣きそうな目をして抱きついてきた。心の優しい子だったのだ。そして、自分が呪力を継承しなかったことを、大きな罪悪のように捉え、うちひしがれていた。シャルが無事に戻るまで、いつも弟は家の前に座り、夜明けと夜更けを眺めていたのだ。
弟の姿と、アヴラルの姿が、重なる。
生きて帰ろうと、シャルはいつもそう胸に誓っていたのだ。暗い顔で家の前に座り込んでいた弟の顔がぱっと明るくなる瞬間を見たくて、母が豪勢な食事を用意してくれているに違いないと信じて、ただその時を得るために、帰ろうと。
出迎える者が存在する自分を、誰より幸福だと思っていた頃だった。ささやかな時間こそが最も尊いとシャルは知っていた。震える程、美しい時間である事を、強く感じていた。いつも。
それが失われるとは――
シャルは過去の景色を遮断した。これ以上の愁思は血の色を伴う。
胸が苦しくなった。アヴラルの思慕の念に飲まれたのか。
この子を必要とするほど慈しみを抱けば、自分はまた別の苦悩に苛まれるのだろう。
甘やかせたくなる思いを堪えて、シャルは手荒い仕草でアヴラルの髪を掻き撫でた。
「眠りなさい。早朝、ユージュの家に連れて行くから」
不安そうな顔をするアヴラルを見返し、そのひたむきな瞳に溢れる涙を、シャルは無造作に指で拭った。