砂の町[11]
一度くらいはアヴラルの様子を見に行くべきかと逡巡したが、自分が安否をひどく気にしていることを正直には認められぬ複雑な感情があり、つい先延ばしにしてしまっていた。また狩令を受けて参戦した夜以来、ユージュとの仲がぎこちなくなり殆ど対話の機会を持てなかったというのも要因の一つになっている。
大体、アヴラルはなぜかシャルを第一に考えすぎている。勿論、命を共有しているという覆せぬ最大の理由が根底にあるためなのだろうが、それにしても過剰な執着はこの先、自分にとってもアヴラルにとってもよくない結果をもたらすのではないかと不安を覚えずにはいられない。ならば時々、こうして距離を置き、自分の立っている場所を冷静に見つめることも必要なのではないかと思う。
シャルは無理矢理理由を作り上げて、自らを納得させた。たとえば、本当の家族や恋人でも、四六時中側にいるなど不自然ではないか。
孤独を呼ぶアヴラルの美貌や異様な出生など、もっと深刻に考慮せねばいけないと心のどこかで理解していたが、それをあえて封じている。恐らくは、アヴラルよりも自分の感情の揺れが悪いのだ。
ふとした瞬間に、精神を守る盾が崩れそうになるのだから――
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約束した通り、シャルは正午、ハルヒを迎えに行った。
ハルヒは宿から少し離れた場所に立ち、儚い風情でぼうっと空を見上げていたが、歩み寄るシャルに気づくと嬉しそうな微笑を見せて小さく会釈した。
しずしずと伝わる控えめな喜びの気配が何ともアヴラルに酷似していて、シャルは脱力感を覚えその場に屈み込みそうになった。これは何かの試練に違いない。
いや大人しそうに見えても相手は男娼、客に不機嫌な表情などを披露するはずがない。
「……じゃあ、行こうか」
内心の動揺を押し隠して、シャルはぶっきらぼうに告げた。
「あの、どこへ?」
と問われて、しばし思案する。
「食事。昼食、まだだろう?」
そのあとは衣服を見繕い、一つくらい宝石でも贈ってやるかと計画を立てる。
奢られることには慣れているのか、特に異論を唱えずハルヒが頷き、ついてくる。
日の下で、改めて確認すると、職業柄当たり前だが、ハルヒは実に艶が漂う端正な顔立ちをしていた。男にしては少し繊細すぎるきらいがなくもないが。
動揺の他に様々な感情をも押し隠して市へと続く道へ顔を向けた時、ふと袖口を軽くひかれた。
「……」
いいのだが、別にかまわないのだが。
様子を窺いながら恐る恐るシャルの袖口を掴むという仕草がどうにもこうにも、気弱な誰かを思い出さずにはいられなくなり、戸惑いが強まった。
一方ハルヒも今までの客とは勝手が違うのだろうシャルに対し、どのような接し方が一番相応しいのか考えあぐねているのだろう。
女にしては態度が横柄で、呪術師にしては温和にすぎる。
とりあえず何も気づかなかった振りをして、そのままハルヒを伴い、市へと向かった。相変わらず市通りは人でごった返しており、乾いた熱気と埃臭い砂の匂いに包まれている。全く不可思議な町だ。昼の市は夜の暗さを忘れさせるほど光という光が全て集中しているかのように強い輝きに満ち溢れ、賑わっている。ところがいざ夜が到来すると、昼間の健康的な明るさが幻影であったかのように秘密めいた裏の顔を見せ、淫猥な風の通り道へと変貌するのだ。その激しい落差は魅力の一つであり、人によっては破滅をもたらす危険な誘惑でもあった。欲望の坩堝とたとえるに相応しい煩雑な町なのである。なぜなら欲望には種類があり、善に包括されるもの、悪に属するものというように様々な形を描く。
シャルは興味深く町の様子を観察し、人の流れに逆らわずゆったりとした足取りで進んだ。モルハイの住人でありながらあまり宿の外へは出ないに違いないハルヒが、少し緊張した様子で静かにあとをついてくる。
市通りをふらつく途中、多種の甘水を飲ませる店を見つけたので、そこでまずは喉を潤すことにした。
甘水の種類を適当に選び、大人しく付き従っているハルヒに一つ渡してやると、礼の代わりなのか、はにかむような表情が返ってくる。
「シャル様は、もしかしてこの目をお気に召されているのでは」
天幕を支える柱に寄りかかって行き交う人の波を眺めていた時、前触れもなく奇怪な言葉を聞かされ、シャルは口に含んだ甘水を噴き出しそうになった。
「私の顔というより、目をよく見つめなさるから」
んなわけあるかい、と思わず絶叫しそうになったが、こちら側の事情など知らぬハルヒにそう告げれば、自分を否定されたと誤解されかねないと気がつき、寸前のところで耐えた。耐えに耐えた。胸中ではつかみかかる勢いで、邪推だと語気荒く繰り返し訴えたが。
「もしかして、想い人と同じ色なのではと」
寂しそうな横顔を見せて笑うハルヒに、一瞬憐憫の情を覚えた。
「……死んだ弟と同じ色なだけ」
シャルはなぜか罪悪感に駆られ、説明してしまった。が、どうも言い訳がましくなってしまったのは、不本意ながら弟の姿に重なるようにして、アヴラルの顔が脳裏に浮かんだためだった。
「弟?」
ハルヒが純粋な驚きを瞳に乗せた。シャルは顔をしかめつつ頷いた。
「いい目の色だ。砂漠を彩る緑。死した大地に再生をもたらす色」
などと柄にもなく余計な賞賛の言葉を言ってしまったせいか、妙に胸がざわめき、己に辟易した。
「それはともかくね、何か欲しいものは? お前ならばどのような宝石でも遜色ないだろう」
訊ねると、ハルヒは悲しげに睫毛を震わせながらも、鮮やかな笑みを作った。
「何より望むものを、口にしてはならぬのが私達の定めです」
ハルヒは気を取り直したかのように背を伸ばし、凛然と、緑の石がついた耳飾りを、と囁いた。
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ハルヒと別れて宿舎に戻った途端、狩りの命令が下った。
今回もやはりユージュの封とは合同できなかった。キカが裏で策謀を巡らせたというより、封を細かく分配せねばらない切迫した状況が原因だろうと推察できる。
レンダと呼ばれる魔物がほぼ同時刻、三つの場所に出現したのだ。レンダは獣の顔を持つ双頭の魔であり、幻影の霧を生む力を宿している。更にはその身に流れる血が、人間にとって猛毒となるのだった。僅か数滴浴びただけで、触れた箇所を中心として、肉体を腐敗させる。
「さてシャル。寄せ集めの兵で、レンダをどのように狩る?」
キカが素早く従寄にまたがりながら、通常時とは異なる硬い声で聞いてきた。
これが扱いにくい臨時の兵ではなく呼吸が噛み合ったクルトの仲間達ならば、とシャルは咄嗟に記憶を掘り起こし、厳しい目をキカに向けた。
容易に接近するのは愚の骨頂。
「百画の蔓はある?」
クルトでは古い道具をよく好んで使用していた。昨今の者達が編み出した武具よりも、古代の狩猟者が用いていた呪具を重んじていたのだ。
百画の蔓とは、女の体液とオアシスの樹液に集まる青羽根の蛾の体液を練り込んだものを、編んだ呪紙に百夜浸らせた捕縛用の道具である。まずはレンダを足止めし、幻影の霧を吐き出す顔を潰すのだ。
「何だ、それ」
怪訝な顔をするキカに、やはりと内心で失望の溜息を落とす。知らぬ者の方が今の世では多いだろう。
「俺は残念ながら、レンダを相手にしたことがないんだ」
全く頼りにならない言葉である。
「ならば剛矢をあるだけ用意して」
剛矢は先端に別の魔物の血を塗り付けた長い弓矢だ。こうなれば離れた場所から剛矢を集中的に降らせるしかない。
「ああ――そうか」
成る程、と得心したかのようなキカの顔が、すぐにばつの悪い表情へと変化した。ひどく嫌な予感がする。
「何?」
「いや、剛矢が有効とは知らなかったんだ」
「それで?」
「先程、別封の長達が全部かっさらっていった」
従寄を走らせようとしていたシャルは動きをとめ、気まずそうに視線を逸らすキカの顔を唖然と凝視した。
「キカは狩りの経験が豊富なのでは? レンダを相手にしたことはなくとも、仕留める方法くらいは知識として持っているものだろう?」
嫌味のつもりではなかったがしっかりと誤解されたらしく、キカが渋面を作り、僅かに目元を赤く染めた。
「仕方がないだろ。レンダが出没する地区で生まれ育ったわけじゃないんだ」
地区も何も、モルハイに居を構えているのならば――。
シャルは不審な思いを直接口にしようとし、躊躇った。キカはモルハイの住人ではなく、シャル達と同様に別地区から流れてきたということなのか?
今はそれを深く詮索している場合ではなかった。
百画の蔓もなく、剛矢もない。どうする?
「ついでにいえば、今回俺達の封の味方は青封のみ。なにせ、三カ所に出没しているからな」
「……そう」
「もっと言おうか? 青封には呪術師がいない。それどころか餓鬼と馬鹿の集団だ」
「お前、上の奴らに顔が利くんじゃなかったの?」
「それが奇妙なことにな、どうも誰かに悪知恵を植え付けられたらしく、俺の言葉に突然耳を貸さなくなったのさ」
キカが意味深な眼差しをシャルに向けた。どういうことだと疑問に思ったが、無駄話をする時間が惜しい。即刻対策を練らねばならない。
「更に言うとだ、食堂でお前に絡んでいた男が青封だ」
その台詞は決定打で、シャルは一瞬、このまま狩りを放棄して宿舎に戻ろうかと本気で考えた。一体何の嫌がらせなのだ。
しかし、あともう一度くらいは狩りをこなし、路銀に余裕をもたせておきたいのだ。――これを最後の仕事として、アヴラルを迎えに行こうと思っている。
何日、あの子の顔を見ていないのか。自分の命が無事ということは、アヴラルもまた健在である証拠だった。結局、仕事を終えるまで一度もアヴラルに会いには行かなかったなと卑屈な笑みが漏れる。
アヴラルが側にいなくても生きてはいけると、シャルはこの日々の中で確信した。今は、幾度も思考に紛れ込むアヴラルの影を消す作業に若干の後ろめたさを覚えるが、それでも更に時間が経過すれば不在である現実に馴れていくのだろうと思えた。アヴラルだとて恐らく、離れていても問題はないと悟っただろう。
ならば迎えに行く必要が、本当にあるのだろうか。
「シャル。惚けていないでどうするつもりだ? お前が抜けるならば、俺もやめるぜ」
キカの呆れたような声に、はっと我に返った。
シャルは思案した。足手まといどころかこちらに対して恨みを抱いていそうな者と手を組み、武具もない状態で魔物を仕留めるなど狂気の沙汰に思えた。だが、ここで不参加とした場合、魔物に襲われる心配はなくとも、仲間を見殺しにしたという理由で後々面倒な問題を招くに違いなかった。むしろ人間相手の揉め事の方が、長期に渡りそうな分、厄介かもしれない。
だとすれば狩りに赴く以外の選択肢など無意味というものだ。
「行くよ」
「そりゃあ、頼もしいことで。勝算はあるのか?」
さあ、とシャルは皮肉な笑みを浮かべた。
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「二頭だとよ」
レンダが出現したという地帯に向かう途中、顔馴染みとなった同封の剣士が溜息をつきつつ、不吉な情報を流してくれた。
「なぜ分かる?」
シャルは従寄を操りながら、僅かに振り向き視線を後方へ投げた。夕刻を迎えて空の色が沈み始め、風が強くなってきている。舞い上がる砂塵の中、振り向いた先の剣士の顔は夕闇のせいばかりではなく曇って見えた。
「襲撃を受けた商隊の護衛が一人、命からがら逃げてきたのさ。やれやれ、腕が半分食われていたぜ」
二頭。声には出さなかったが、身体が重苦しい感覚に苛まれる。双頭の魔獣レンダは、とにかく体躯が巨大で鋼のごとく頑丈な肌を持つ。動作は比較的鈍重なのだが、それでもこの人数で二頭を相手にするのはきついだろう。
「で、猊師殿。算段はついているのかい」
キカと似たような台詞を聞かされてしまう。ふざけた口調ではあったが、少なくともシャルを蔑み見下しているという雰囲気ではない。結局のところ、戦闘時においてそれなりの活躍を見せれば一応はこちらの立場を尊重してくれるのだ。
「戦法はまかせるぜ、猊師。俺は戦略を練るなど苦手だからな」
別の剣士が従寄を寄せ、なんともおおらかな笑い声を響かせた。不謹慎ながらも、その軽い態度で胸の澱が僅かに払拭される。真剣な目を見れば、ただ厄介事を人任せにしているのではないと分かる。軽口はある程度の信頼の証と受け取っていいだろう。
「まあ、あいつらだって、いないよりはましだろうしな」
剛健さが窺える剣士の一人がかすかに皮肉な目をしてちらりと後方へ視線を流した。少し遅れる形で青封の者達が従寄を駆っている。シャル達を先へ行かせようと己の従寄の速度を調整し、狩りの参戦には消極的な態度を見せている。
「屑の周りには屑が集まる。それが世の道理さ」
キカの辛辣な言葉に、違いない、と剣士達が失笑する。シャルは密かに安堵の息を漏らす。この封に関しては連帯意識が生まれているし、統率も取れている。それが恐らく救いとなるだろう。
「とにかく――まずは魔獣の動作を封じなければ」
シャルは早口で低く呟いた。