砂の町[12]
双頭の魔、レンダ。絶えず怒りを抱く目。赤毛の凶獣。
惑乱の術を知る魔に、同じ幻影の呪法は効かない。そして巌のような巨躯に流れる血は猛毒。呪具を用意できなかったのは痛い。
「シャル、どうする」
キカの言葉に視線を向け、皆にも聞かせるよう、声を張り上げた。
「レンダの血は浴びれば肉を溶かす。仕留める直前まで接近戦は控えた方がいい。矢を放ち、動きを鈍らせてから双頭を落とす」
「しかし、その矢がまず当たらない。レンダは常に素早く、幻象の盾を身にまとっている」
と、同封の剣士が即座に切り返してきた。レンダが包括する魔力は陽炎のごとく常に溢れているため、それが障気となって通常の攻撃を阻むことから、幻象の盾と呼ばれている。
「私が障気を断ち切る。その時に矢を放て。レンダの勢いが落ちてから、そうだね、キカ、お前、動きが俊敏だから隙を見計らって双頭を落としてほしい。矢だけでは射止められまい」
「二頭が相手、俺一人では無理だ」
キカが憂鬱そうな顔を見せた。血糊を浴びぬように警戒しながら接近せねばならないため、確かに二頭を相手にするのは困難かもしれない。
「俺も行こうか。他の奴らはありったけ矢を降らせてくれな」
別の剣士が気負いなく名乗りを上げ、同封の者を見回した。
「ところで、口笛を吹ける者はいる?」
シャルの問い掛けに、皆不思議そうな顔をした。
「レンダはね、精霊の歌声に弱い。人が奏でる歌に拘束力はないが、一瞬程度はレンダの気を引ける。私が障気を遮断するまで、誰か囮になってほしい」
説明すると、皆げんなりした表情を見せた。しかも、全員、僅かに従寄の速度を落として視線を逸らしたので、シャルは睨みつけた。
「最も引き受けたくない役だな」
先程まで軽口を叩いていた剣士がひどく気鬱といった口調で呟いた。
「か弱い女が二番目に危険な役を引き受けるのに? 障気を断たねば、普通の矢では効果がないよ」
とシャルが笑みを浮かべて皆を見回すと、全員、複雑な顔をして溜息をついた。
「か弱い女は狩りをしねえよ……」
「こいつの男は間違いなく尻に敷かれるな」
「何とも心強い女だ」
言いたい放題呟かれた。嫌いな空気ではない。
「では猊師として命じよう。全員で、吹くように」
きっぱりと言い渡すと、皆、項垂れた。往生際が悪い。
キカが従寄を操り、青封の者達へ作戦を伝えにいく。援護はあまり期待できそうにないが、少なくとも矢くらいは使ってほしい。
「おい、いたぞ!」
剣士の一人が鋭く叫んだ。
枯れた岩木さえ見えなくなった開けた砂地で、二頭のレンダが地面に鼻面を突っ込んでいた。いや、違う。襲撃した商隊の者達の肉片を貪っているのだ。
シャルは素早く従寄から飛び降り、自分の髪を二本抜き取った。こうなると、髪を短く切り取ってしまったことが悔やまれる。
二本の髪でそれぞれ、手早く輪を作り、体内の呪力を鼓舞する。
シャル達の到着に気がついたレンダが血で染まった顔をゆっくりとこちらへ向けた。シャルはその様子を眺めながら、呪法を編んだ。しかし、予想外の早さでレンダが魔眼を輝かせた。身から溢れる障気の色が濃くなる。幻影の術だ。
舌打ちと共に一旦呪法を中断させ、片腕を大きく振るって風の衣を作る。ここで幻影の網にかかれば致命的な敗北を招くため、なんとしても封じなくてはならない。
霧のごとく広がり始める幻影の魔力を、生み出した風の衣で覆い、吹き飛ばす。二頭はきつい。幻影を封じるだけに気を取られ、足止めのための呪法を編む時間が取れない。
焦りを抱いた時、シャルの後方から矢が放たれた。恐怖に駆られたのか、青封の者達が無断で次々と矢を放ち始めたのだ。
「無駄遣いするな!」
キカが青封の独断行動に気づき、腹立たしげに怒鳴った。この状態で闇雲に矢を放っても、動作が俊敏で、尚かつ幻象の盾で身が守られているレンダに的中するはずがなかった。逆に、まだこちらの行動を窺っているだけのレンダを無意味に煽る危険を生むだけだった。何という愚かさか。
その時、シャルの命令を思い出したらしい同封の剣士が、かすれた口笛を響かせた。悪いが、下手すぎる。
あまりの下手さに、同封の者達が我に返ったらしく、ようやくまともな口笛を聞かせてくれるようになった。突進の体勢を見せていたレンダが怪訝そうに双頭を低くし、動きをとめる。調べの中に拘束力が含まれているのか、探っているのだ。
「何やっているんだ、口笛など吹いている場合か!」
あぁ、共同食堂で絡んできたあの愚かな男。レンダのための口笛を遮るように喚き立て始める。気絶させてやろうかと怒りを抱いた時、シャルが動くよりも早く同封の剣士が近づき、無言で男の頬を殴った。別の意味でもつい胸がすっとした。
シャルは再び髪で作った二つの輪をかざし、呪法を紡ぐ。幻象の盾を遮断するため、糸炎の輪と呼ばれる鏡のような膜を作り、それにレンダの身を捉える。
言霊を受けた小さな髪の輪が大きくなり、その内部に水の膜のような揺らめきが生まれる。芝居小屋で披露される猛獣の火の輪くぐりの要領で、レンダの身体にはめ、障気を遮断するのだ。
口笛の効果が失せたのか、一頭のレンダが動き始めてしまった。下手な口笛を奏でていた剣士に襲いかかったのだ。悲鳴が上がる。まだ術は完全になされていないが待つ時間すらないと気づき、未だ歪な形の糸炎の輪を剣士に噛み付くレンダへと放った。輪がレンダの胴にはまるのを見届ける前に、もう一頭が別の剣士へ飛びかかる。従寄の動きを上回るレンダの跳躍に、冷や汗が流れた。不完全な糸炎の輪を、そちらへも放つ。
「矢を!」
シャルは叫んだ。二頭共に、輪をはめることはできたが、不完全なために長くは持つまい。百画の蔓ならばもっと足止めできるのにと詮無い考えを抱き、焦燥感を募らせる。障気を辛うじて断てたとはいえ、魔力そのものを封じたわけではない。輪に捕えられ怒りに燃えるレンダの目が再び鈍く輝く。シャルは残された呪力に唇を噛み締めながらも、再度風を生み出し、幻影の霧を払った。慣れぬ呪法のお陰で、いつもよりも早く息が詰まる。
矢が雨のごとくレンダへ向かって放たれた。剛矢ではないため、たとえ針山のように突き刺さったとしても致命傷にはならない。そして不完全な状態で飛ばしたシャルの術では、レンダを完全には足止めできない。魔力の強いレンダには、多量の生き血を利用できるならば別だが、以前構築した因の四界という呪法では役不足なのだ。
「どうなっているんだ、てめえの術、効いていないじゃねえか!」
役立たずめ、と青封の誰かが罵倒した。罵る暇があったら矢を飛ばせとシャルは内心で罵倒し返した。
「矢が足りねえ!」
こちらに責任があると言いたげな怒声が上がる。無駄遣いをしたせいだ。駄目だ、レンダが動く。
一頭に食い込んでいた糸炎の輪が、砕けた。身体に突き刺さった矢を振り飛ばしながら、レンダが猛進してくる。恐怖に塗れた断末魔が青封の剣士から迸った。一人、二人、胴と頭を飛びつかれた勢いのまま食いちぎられるのを目にしたが、誰も駆け寄れない。揺らめく障気と猛毒である血を恐れ、不用意に近づけば自分も死ぬと皆分かっている。
「シャル!」
キカの叫びを背に、シャルは駆けた。剣士の一人の身を前足で踏みにじり噛み付いているレンダへ接近するまでに剣を鞘から抜き、その腕に呪力を集める。レンダが振り向き、視線が交わった。シャルは飛翔の術を使い、レンダの上空に躍り出て、呪力を集めて燃える剣をその背に突き立てた。普通の剣では斬れない。残された呪力を全て注ぎ込む勢いで、レンダの背を貫き、地面に縫い付ける。
「シャル」
噴き出す血を避けるようにして地面へ転がり、キカ達の方へ顔を向けた。一気に呪力を放出したため、身体中の水分を消失したかのごとく乾き、すぐには動けない。
「斬れ!」
もう一頭を捕えていた糸炎の輪が、壊れかかっている。そうなると、彼らにはレンダを斬れなくなってしまうのだ。
キカが素早く動いた。辛うじて糸炎の輪に繋がれているレンダの頭部を一つ駆け寄りざま斬り落とそうとしていた。しかし、剛力の男でさえも片手ではレンダの首を切断できないのだ。キカの剣がレンダの頭の一つに食い込んだまま離れない。血が噴き出し、息を呑むキカの顔が目に映った。その時、接近していた別の剣士がキカを突き飛ばし、振り向き様に両手でレンダの首をたたき落した。見事に落ちたレンダの首――だが、キカの代わりに黒い血を浴び、まだ死なずにいるレンダの爪に胸を引き裂かれてしまう。まだ頭部が一つ残っているのだ。
他の剣士達が一斉に、首一つとなったレンダへ攻撃を始めた。多分、そちらは狩れるだろうと思った。問題は自分が地面に縫い付けた方のレンダだった。大半の呪力を注いでも尚、背を貫いただけでは殺せない。
振り向くと、レンダは地面から剣を引き抜こうと激しくもがき、暴れていた。シャルは焦燥感に苛まれたが、身体がいうことをきかず、荒い息を繰り返すだけで手を出せない。
どうする。
全身に嫌な汗が滲む。自分の血を糧に術を使いたくても、呪力がこれだけ失われている。剣は以前からの習慣で、二本を必ず所持しているが、今の体力では――
苦痛の中、顔を上げた時、ふっと頭上が陰った。
「おい、まだこいつ、生きているぞ!」
もう一頭の相手をしているのは殆どが同封の者だった。矢を放つだけで、あとは殆ど傍観していた青封の剣士達がこちらへ寄り集まってきたのだ。腹立たしさが燃えるようにこみ上げる。仲間を見殺しにして、うまい汁だけを吸おうとする者達。
「斬れよ、そうすれば報酬は俺達がもらえる」
「冗談じゃねえ、血は猛毒なんだろ」
「おい、でも化け物は瀕死じゃねえか、斬れるだろ」
「俺の剣では斬れねえよ」
なんて会話なのだと、シャルは目眩がした。このような愚劣な者、剣士ではなくただの盗人だ。
「待て、こいつの剣なら斬れるだろ。呪をこめていると自慢していたからな」
その言葉が耳に届くと同時に、後方へ乱暴に上半身を倒され、腰元を探られた。霞む目を無理矢理瞬かせると、嫌な薄笑いを顔にはりつけたあの男が、残されていたもう一本のシャルの剣を奪おうとしていた。食堂で絡んできた男だ。
この男!
抗おうと身を起こしかけた時、渾身の力で頬を張られた。目の奥で火花が散る。
「いい剣だ」
許せぬ、この男は。
「早く斬れ!」
別の剣士がせき立てるように喚いている。キカ達の方は、まだ終わっていないのか!
殴られた痛みと全身を襲う虚脱感で、目を長く開けていられなかった。ひどい頭痛に歯を食いしばった時、ざくりと肉を抉る音が聞こえた。
「うわっ、てめえ、血がこっちへ飛んだぞ!」
「斬れねえじゃねえか!」
剣士達の憤りの声が幾重にも木霊していた。シャルは片手を地面に付き、痺れる身体を無理に起こして立ち上がった。
「化け物が!」
シャルの剣を奪った男が鬱憤をこめた荒い口調で吐き捨て、愚かにもレンダの脇腹を思い切り蹴り飛ばした。
どうしようもない馬鹿だ。
呆然とするような愚行に、シャルは目を見開いた。
砂の地面は脆い。そういう場所で辛うじてレンダの身を地面に縫い付けることができていたというのに。
蹴り上げる力に、逃れようともがいていたレンダの動作が噛み合い、地面に突き刺さっていた剣の先端が抜けてしまったのだ。
剣を背に刺した状態のまま勢いよく飛び起きるレンダに、口々に喚いていた青封の者達が凝固していた。怒りに塗れた壮絶な色のレンダの双眸に、誰もが束縛されていた。
男に殴られた衝撃で、口の中に血が溜まっていた。シャルは口内へ指を入れ、その血をすくい取るようにして付着させた。足りない呪力、血で補わねば、もう使えない。
大きな呪法はどうあっても操れぬ今、単純に風を作ってレンダを後退させるしかなかった。その場しのぎの方法だが、むざむざと殺されるつもりはなかった。
だが――
風を生む前に、突然、思い切り腕を掴まれ、レンダの方へ突き飛ばされたのだ。
何が起こったのか即座には理解できず、レンダの真正面で膝をついた。緊張感が弾け飛ぶかのように全身が粟立つ。
「逃げろ!」
仲間を急かすあの男の声がした。
シャルを囮にして逃走するつもりで突き飛ばしたのだと、愕然と理解した。
なんて、なんて卑劣な真似を。
声が出ない。痛烈な仕打ちに対して感情が痺れてしまい、レンダの目を見返しながらも身動きできなかった。
「シャル!?」
離れた場所からキカの声が響き、そこでようやく我に返る。レンダに噛み付かれる寸前、これまでの狩りの経験が生きたのか、条件反射で風を作り、レンダを僅かに弾き飛ばすことができた。
その間に腰を落とした状態のまま、数歩後退する。地面を探る指が固い物に触れ、振り向くと、男が逃亡前に投げ捨てたらしいシャルの剣が落ちていた。柄を握った瞬間、魔の息遣いが間近に再び迫ってきたことを知った。
噛み付かれると呆然と思った時、空気を切り裂く鋭い音が聞こえた。レンダの脇腹に、矢のごとくキカの剣が突き刺さったのだ。はっと視線を転じ、キカが渾身の力で剣を投げてくれたのだと分かった。だが、これでもまだ、レンダは闘争心を捨てない。キカや同封の剣士達がこちらへ駆け寄ってくるのに気づいたが、それよりもレンダの方が早かった。
飛びかかってくるレンダを見上げながら、シャルは握り締めた剣に口を寄せ、自分の血を付着させた。
薄闇より濃いレンダの体躯の下敷きにされるより早く、シャルは固い腹部へ垂直に剣を突き立てた。両手で支えるだけで限界だったが、レンダはこちらの身を覆うようにして飛びかかってきたため、その勢いで剣先が深く腹部へ沈んでいく。
この体勢はいけないと分かっていても、剣を手放せないために飛び退くことができなかった。剣が裂いた腹部からレンダの血が迸り、シャルの身体に降り注いだ。一瞬だけ、シャルは目を閉じた。
「くそ!」
キカの罵声と共に、レンダの身体がシャルの上から消えた。同封の者達が駆け寄ってきて、横倒しになり痙攣しているレンダの首に脱いだ上着を押し当て、その上に剣を振り下ろしていた。成る程、血糊を浴びぬ為にか、とシャルはぼんやりと感心した。
「シャル」
どこか緊迫したキカの声音に、緩慢に瞬きをする。
――レンダの血が。
じわじわとシャルの身体を苛む猛毒の血。皮膚の奥へ奥へと染み込み、体内を穢していくのが分かる。
シャルはがくりと頭を垂らし、その場に座り込んでいた。動けない。
キカが正面に片膝をつくのが分かった。薄闇のせいではなく、視界が濁り始めるのを意識した。
「シャル――どうすればいい?」
振り絞るようなキカの低い声が不思議だった。そういう、今にも息絶えそうな声を、初めて聞いた。