砂の町[13]
「こりゃあ、いけねえ」
誰かがぽつりと暗い口調で呟くのが聞こえた。
レンダの血を多量に浴びたシャルは、体内に急速に広がる脱力感のため手足が弛緩し、立ち上がることができなかった。
「なあシャル。どうすればいい」
キカがまるで怒りをたたえているかのような硬い表情でこちらの顔を覗き込んでくるのが分かった。
「何してやがるよ、化け物の血に犯されたならさっさと始末するべきじゃねえか!」
またあの男が余計な言葉を吐き散らし、青封の者達を煽動しているようだった。
「黙れ、下種め! 知らぬとでも思ったか? 己の安全を図るために、お前、シャルを犠牲にしようとしただろう!」
シャルと同封の一人がどうやら先程の一幕を目撃して義憤を覚えたらしく、唸るような怒声を響かせた。いつの間にかこうして仲間意識が生まれていることにふと懐かしさを感じ、クルトの徒として活動していた頃を思い出した。
「女のくせにしゃしゃり出る方が悪いんだよ!」
男の憤懣に同調した青封の者達が一斉に喚き出した。シャルにとっては憎むべき男にも複数追従する者が存在し、その論を正当な主張として受け止めているのだと、皮肉な考えを抱いた。生き方が異なれば抱く信条もまた差がある。
「シャル、聞こえているか」
キカは周囲の口論を一切無視してこちらの肩へ手を伸ばそうとしていたが、触れる直前、躊躇うように動きをとめた。
「触ってはいけない」
シャルは麻痺し始める身体を叱咤し、力を振り絞って唇を開いた。
「私は、斗糸の呪術師。レンダよりも、我が力、上回るならば、血の穢れを浄化できるだろう」
切れ切れにそれだけを答えた。
「このまま動かずにいればいいのか?」
キカの焦りを含んだ問い掛けに、微かに頷く。
嘘だ。
斗糸だろうが何だろうが、人間ごときの呪力が、存在そのものが怪である魔の能力を凌ぐはずがない。キカを安心させるための虚言にすぎない。それに、目を凝らしてこちらの様子を窺い非難の機会を探している男達の前で、今以上の無様な姿を晒したくないというなけなしの意地もあった。
「だから、一人に、してほしい」
声を出すのが億劫になってきた。目眩のためか、どれほど意識を集中させようとしてもすぐに綻び、不安定になっていく。
「分かった。お前達は先に戻っていてくれないか、シャルが動けるようになるまで、俺が残る」
できるならばキカにも離れてほしかったが、最早声を出せる気がしない。意識が突然断ち切られ、光が点滅するかのように再び浮上する。
これはいけない。
未だ肉体が腐り落ちずにいるのは――もしかすると、アヴラルと命を共有しているためかも知れぬと気づいた。
そういえば、以前アヴラルは毒を身に受けた時、水さえあれば命を繋げられるというようなことを口にしていた。不本意だが、魔の子であるアヴラルの恩恵を、僅かなりとも受けているようだった。
しかし、その恩恵は長くは続かぬだろうとも思う。瞼が重くて仕方がない。既に目を閉ざしているというのに、ひどく重い。自分の身体が、砂漠の地に力なく突き刺さっているひからびた木々のように、乾いていくのが分かる。
死が近い、とシャルは観念した。自分の身から風の気配が遠退いていく。聖なるものが消えていく。
死はいつだって覚悟していた。容易く命を散らす気は毛頭ないが、闘争の中に身を置いている以上、己だけはどのような場合でも災いから逃れられるなどといった考えは信じていない。仕方がないことだとシャルは思った。
だが――アヴラル。
瞼の裏に描かれる鮮やかな緑の瞳。悲嘆に暮れる目。
ここで死ねば、アヴラルまでも道連れに?
駄目だ、と咄嗟に焦りを抱く。なぜだろう。憎悪の対象である魔の落し子だというのに。ある意味、これで殺す手間が省けたのではないか、己の命と引き換えではあるが。
あぁけれど、せめて、あの子を迎えに行くまでは。
必ず戻ると約束した。誓いを反古にするのは好きではない。強い衝動が生まれる。死ぬ覚悟が足らぬのではなく、死ぬわけにはいかないのだと、飢えるように思った。それでもやはり身体は自由にならない。
アヴラル。迎えにいけそうにない――。
意識に雑音が混ざり、血の流れがせき止められるのを感じた。せり上がる息苦しさ。肉体的な反応で、口から血が溢れた。身体がぐらつき、力を入れることもかなわず、地面に倒れる。頬に触れた砂の感触。誰かの叫び声が、幕で閉ざされたかのように遠く聞こえる。
魔の子。いつか自分を裏切り、強大な力を解放して非情の存在へと変貌する可能性を秘めた子。けれども、未だその性は覚醒しておらず、人である己よりも慈しみに満ち稚かった。ここで死なせると分かっていたならば、もう少しだけ、可愛がってやればよかったかもしれないと後悔を覚えた。
あの子だけが今、自分の帰りを待っていたのに。
強い自責の念を抱いた時だった。
手の甲に、ちくりと明確な痛みが走った。
その一点に向かって体内の血が駆け巡るかのような、異様な感覚。
何だ?
二度と開かないと思っていた瞼が開く。朧げに映る銀の光。揺らめき、鱗粉をまき散らしている。
その目映い輝きを以前、目にしたことがある。
蝶?
シャルは瞬いた。
この蝶。
砂漠の王。
なし崩し的にアヴラルが従属させた、魔の蝶ではないか?
なぜその蝶がここに。
次第に明瞭になる視界には、一匹の可憐な羽根を持つ蝶が映った。
確か紫色の模様を持つ蝶が一匹だけいたはずだが、この場に出現したのは銀一色のものだった。
銀の蝶は、地面に投げ出されているシャルの手の甲にとまり、針のような長い舌で皮膚をさしていた。
一瞬、毒を注がれているのかと思ったが、逆に身体の中を流れる血が、刺された箇所へ向かっているかのように沸き立っている。
まさか、身体の中の毒を吸い上げているのか?
信じられない思いで手の甲にとまっている蝶を凝視した。
肉体を襲っていた苦痛や痺れが少しずつおさまっていくのに比例して、砂漠の王である蝶の羽根が黒く変色していくのが見えた。間違いない、シャルを蝕んでいたレンダの毒を、この蝶が吸い上げている。
なぜ。
アヴラルが命じ、この蝶を差し向けたというのか?
だがなぜシャルが瀕死の状態であると知ったのだろう。
「シャル」
どこか気が抜けたようなキカの声が届いた。
みるみるうちに体内の毒が取り除かれ、呼吸が楽になっていく。
「どういう……ことだ?」
説明できない。シャル自身も、真相が分かっていないのだ。
レンダの毒が殆ど浄化された時、焦がしたかのように羽根を黒く変色させた蝶が手の甲から落ち、死に絶えた。
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その後、どうやら死を免れたらしいシャルは、キカの従寄に同乗させてもらい、宿舎へと戻った。
毒が癒されたといっても体力までは取り戻すことができず、しばらくの休養を必要とした。キカに身を担がれて部屋に戻り、なんとか自力で衣服を取り替え、清めてから倒れるようにして寝台に沈み、深い眠りを貪った。
丸一日眠り続けてもまだ体調が戻らず、ようやく身を起こせるようになったのはレンダを狩ってから二日が経過したあとだった。
「忘れていた。これはお前の取り分な」
当たり前のようにシャルの部屋でくつろいでいたキカが、懐から小袋をつかみ出し、こちらへ放った。レンダを狩った時の報酬らしい。
「おい、まだ動かない方がいい」
寝台から降りた時、渋い口調でキカに諭されたが、一瞥のみでかわし、靴の紐を締めて上着を羽織った。
「無視するな」
「少しその辺を歩くだけ。身体をそろそろ動かさないと」
立ち上がった瞬間、軽く目眩がしたが、気づかぬ振りをして部屋を出た。キカがぶつぶつと文句を言いながらあとをついてくる。
「なあシャル。そろそろ教えてほしいんだがな。なぜ砂漠の王が命を賭してお前を救ったんだ?」
「さあ……」
といつまで誤摩化し続けることができるか。
「そう警戒しなくてもいいだろう?」
宿舎を出て、共同施設へと繋がる渡り廊下を歩いていた時、ふと鍛錬所がある別館の窓へと意識が向かった。
ユージュ?
足をとめ、目を凝らしてそちらを窺う。ユージュと、もう一人、誰かの影が見える。あの男はシャルを囮にした青封の者ではないか。
嫌な予感がして、鍛錬所へ向かおうとした時、複雑な表情をしたキカに腕を掴まれた。
「行かない方がいいな」
「なぜ」
「お前の部屋に向かう前、鍛錬所に寄ったんだけれどな、青封の馬鹿共が騒いでいた」
「何て?」
「まあ、つまり、お前が化け物に毒されていると」
「はぁ」
「あいつら、本当に屑だぜ。俺達の取り分まで巻き上げようとしていた。同封の連中がそれに気がついて、随分揉めたんだ。あの馬鹿共、己達の力でレンダを仕留めたと妄言を吐き散らしやがったのさ」
キカと顔を見合わせ、溜息を落とす。
「な、シャル? いい子だから今日のところは大人しく部屋に戻りな。あんたの連れだって一応は呪術師だ、あんな屑野郎に屈するほどには弱くないだろう。具合が戻った時に、ゆっくりと話を聞けばいいさ」
子供扱いと懇願口調に根負けしてユージュを問いたださずに部屋へ戻ったことを、シャルは数日後、深く後悔する羽目になる。
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レンダの猛毒を浴びながらも生還したシャルに奇異の目が集まるのは、ある程度予測していたことだった。悪い噂が流れて取り返しがつかなくなる前に、ここらでそろそろアヴラルを迎えに行こうと決意する。予定よりも数日、孔衛館を出るのが遅れてしまっていたので、少し焦りも抱いていた。
去る前に、ユージュに一言告げなくてはならない。あまり気乗りはしなかったが、説明しておかねば更に恨まれるだろうことは想像できたので、彼女が寝泊まりしている部屋に向かった。
だが、その部屋は既に片付けられ、無人だった。血の気が引く思いで慌てて宿舎の管理人を問いつめると、数日前に契約を打ち切る旨を告げられたと説明を受け、しばし呆然としてしまった。そのような事情、ユージュから何も聞かされていない。なぜこちらに断りもなく、逃げるようにして去ったのか。
アヴラルは?
強く眉間を押さえ、動揺を静めようとした。自分の指先が微かに震えていることに気がつき、口の中で舌打ちする。
嬉しくない兆候が見える。
宿舎の廊下に立ち尽くしていた時、こちらの様子を窺いに来たらしいキカと出会った。
「どうした?」
怪訝な顔をして訊ねるキカの顔を睨むように見つめた。
「ユージュがいない」
「いない?」
「既に契約を切ったと」
キカが僅かに目を細め、考え深げに虚空を凝視した。
「お前、部屋でちょっと待っていろ」
そう言い捨てて、キカが踵を返した。今すぐアヴラルのもとへ向かいたかったが、キカが恐らく何らかの情報をもたらしてくれるだろうと考え直し、不安を宥めつつも部屋に戻る。
しばらく後、部屋にキカが現れて、更に不吉な話を聞かされた。
「色々聞き回ってみたんだがな、どうも夜逃げしたのはお前の連れだけじゃないようだぜ。お前によく絡んでいた青封の男まで行方をくらましている」
思わずシャルは呻いた。何のつもりなのか、ユージュは。
「シャル、どこへ行く?」
立ち上がって荷物を掴み、部屋を出るシャルの背にキカが声をかけてきた。
「私もこれで契約は打ち切る。世話になった。機会があれば、また会おう」
視線だけをキカに投げ、足早に歩きながらシャルは思考を巡らせた。一刻も早くアヴラルのもとへ帰った方がいい。理由は分からなくとも、その懸念だけは外れないだろう。
「こら待て。あっさり別れを告げてくれるものだな」
「悪いけれど、急いでいる」
「俺も行くよ」
軽い口調で同行を申し込まれ、シャルは眉をひそめて、隣を歩くキカの呑気な横顔を見つめた。
「私はもう、孔衛団には戻らないよ」
「うん、いいさ」
「いいさ、って」
「ちょっと待ってろな。荷物を持ってくるから。一人で行くなよ」
どういうつもりなのかと唖然としている間に、キカがさっさと自室へ向かい荷物を持って来た。
世話になった以上、強く拒絶することができず、押し切られるままにシャルはキカを伴い、アヴラルのもとへ急ぐこととなった。