の町[14]

 主な家財が運び出されたあとの、無人の住居を前にした瞬間、シャルは青封の男に魔物の前へ突き飛ばされた時よりも驚愕し、深い怒りを覚えた。
 見窄らしくさえ映る貧しい住居。アヴラルを預けていたユージュの住まいだ。
 だが、アヴラルどころか、同居人であった女も、ユージュの妹であるリタルの姿も見えない。ほぼ空と化した室内を見れば、ここで待っていても彼女達が戻ってくる可能性は低いだろうと認めざるをえなかった。荒らされた感はなく、自発的な去り方に違いないだろうと思う。目の前が陰るほど他人に対して殺意と怒りを感じたのは久しぶりのことだった。
 裏切ったのだな、ユージュは。
 何も言わず契約を打ち切った事実から、ユージュが無関係とは到底思えない。蒸発したければ好きにすればいいが、それにアヴラルまでもを巻き込んだのが何より腹立たしいのだ。
「ここがあの女の根城か?」
 空虚な雰囲気が漂う室内を見回しながらキカが訊ねてきたが、返答する余裕はなかった。
 よく知りもしない他人になど、アヴラルを預けるのではなかった。一番は、ユージュに同情など寄せねばよかったのだ。
 頭痛がした。あれほどアヴラルは離れがたいと訴えていたのに。せめて、何度か時間が取れた時に、顔を見に来ていれば異変にもっと早く気がつけたかもしれなかったのだ。何のかんのと適当な理由をつけ、先延ばしにしてアヴラルを放置していたのは自分だった。愚かな自分への失望とユージュへの憎悪が混ざり、シャルから言葉を奪った。
「で、どうしてそれほどまでにユージュに固執するんだ?」
 ユージュ個人になど最早興味はない。問題なのはアヴラルの安否と行方なのだ。
「特に親しいというのではないだろう。女が一人、行方知れずになるなど珍しくはない。なぜ気にする?」
 シャルは一度、指先で強くこめかみを押し、怒りを堪えるために大きく息を吐いて、腰に手を当てた。
「シャル?」
「悪いけれど、一人にしてくれないかな」
 怪訝そうな顔をするキカから目を逸らし、虚空を睨みつける。このままでは何の関係もないキカに八つ当たりをしてしまうし――何よりも他人と共にいるのが鳥肌が立つほど疎ましく感じられた。己の甘さ、ぬるさが憎い。他人を考えなしに近づけ、その結果裏切りに憎悪する浅はかな自分が、許せぬ。
「つき合ってくれてありがとう」
「なあ、シャル」
 シャルは口を閉ざし、ひたりと視線をキカの目に合わせた。キカは僅かに眉をひそめた。
 この男だとて、どこまで信用できるかしれたものではないと、自嘲をまじえた暗い感情を抱く。キカの過去など何一つ知らぬのだ。今はよくても、いつか欺かれるかもしれない。それがモルハイで蠢く人間の真実だった。
「そうかよ」
 シャルの目の色を見て、何を言っても無駄だと悟ったのだろう。キカが唇を歪めて皮肉な微笑を浮かべ、そのまま踵を返して去っていった。
 キカの姿が見えなくなったあと、シャルは薄汚れた壁をぐるりと見回し、苛立ちを吐き出すように靴の爪先を意味もなく床に何度も打ち付けた。
 アヴラルを探さねばならない。だが、理性を失いつつあるためか、思考が鈍り、まとまらない。
 駄目だ、この状態では。頭に血がのぼっているため、ろくな考えなど浮かぶはずがない。少し冷静にならねばと自分に言い聞かせ、運び出せなかったらしい造り付けの文机に腰掛けて俯いた。休んでいないで、すぐさま行動を開始した方がいいと分かっていても、静寂の中に身を置き、頭を冷やす時間が必要だった。
 シャルは両手で口元を覆い、がらんとした室内を何度も眺めた。斧で一撃を加えたかのように無数の亀裂が走る低い天井。床に投げ出されている割れた皿。壁の戸棚が薄く開いていて、黒い空洞を覗かせている。
 なんて体たらくだ。
 胸中で激しく己を罵倒した。本当に、なんて無様な。
 一体自分は何のためにアヴラルを突き放し、死と隣り合わせの戦いに挑んでいたのだろう。今後の旅で必要となる路銀を稼ぐためではなかったのか、だがアヴラルの姿が消えてしまっているではないか。
 シャルは前屈みの姿勢で俯き、しばらくの間、ただずっと片手で顔を覆った。
 
●●●●●
 
 どのくらい時間が経過したのか。
 濁流のごとく荒れ狂っていた感情は表面上静まり、正常な思考が戻り始める。シャルは緩慢に顔を上げた。長い時間、俯いていたせいか、背を伸ばすと身が僅かに強ばっていたのが分かった。
 指先を膝の上で組み合わせ、亀裂の入った煤けた壁を凝視したが、意識はそこになくどこか乾いた己の内面を漂っている。
 とりあえずアヴラルは生きている。命を共有しているのだ、あの子が命を散らせば己もこうして無事には生きていられないはずだった。
 意図は不明なものの、ユージュ自身か、あるいは彼女の関係者がアヴラルをどこかへ連れ去ったのは間違いない。ではどこに焦点を合わせて捜索すればいいだろう。
 ユージュが行動を起こしてから既に数日が経過している。その点を考慮すれば、最悪の場合、モルハイから去っているという危険性があった。いや、ユージュに仲間がいると仮定した場合、もっと前からアヴラルは連れ去られていたとも考えられる。その場合の追跡は、さすがに苦しいだろう。
 極力関わりを避けてきたつけが、ここへきて罪悪であるかのごとく重くのしかかる。ユージュの交友関係なども分からず、出入りする場所も知らない。
 それにしてもアヴラルは一応、強大な魔力を持つジグマの血を継いでいるというのに、なぜこうも簡単にさらわれてしまうのか、純粋に不思議に思う。警戒心に欠けた騙しやすい子であるのは保護者の立場を取っているシャルも認めるが、一体どういったくだらぬ虚言を吹き込まれて、他人の浅ましい奸計に陥ったというのか、そのあたりの理由が全く推量できない。必ず戻ると言った私の言葉をなぜ信じぬのかという幾分傲慢な苛立ちも確かに抱いており、再び思考が発展性のない底なし沼のような黒い怒りの中へ引きずり込まれそうになった。
 これではどちらが置き去りにされたのか、分かったものではなかった。
 ともかく、アヴラルが自分の意思でシャルを待たずに見知らぬ場所へ逃げたとは考えにくい。そういった強い自我や積極性とは呆れるほど無縁の子で、いつも言葉より雄弁な、ひたむきな眼差しでこちらが手を差し伸べるのを静かに待っていたのだ。
 さぁ、手がかりはどこに埋もれているのか。日が落ちるよりも早く動き出さねば、今以上に深刻な事態を招き、自分の命さえ危険にさらすような取り返しのつかぬ状況を迎える羽目になるだろう。
 たとえば隣住居の人間に、ここでどのような変化があったのか話を聞くという手段もあったが、恐らくそれは何の収穫ももたらさぬどころか、かえってこちらの動向がアヴラルを連れ去った何者かに伝わり、ますます捜索を困難にする可能性があった。こういった貧民区域に存在する住人達の連帯感や頑さ、排他感は一種、独特なものがあり、シャルのような余所者……特に貧困とは関わりなく見える者には恐ろしく冷淡な対応を取る。嫉妬や羨望などといった感情よりももっと深い場所から汲み上げた暗い思いを彼らは持っており、ただ邪険に追い払われるだけならいいが、偽の情報を掴まされ、別の問題に巻き込まれて往生することも考えられた。無闇に接触するのは躊躇われる。
 頭の中で一つ一つ考えを整理し、最も何かしらの痕跡を残していそうで、またこちらにとってもそれほど危険もなく情報を入手できそうな場所は、やはり孔衛団だろうと結論を下した。というよりも、ユージュの過去を殆ど知らないシャルが踏み込める場所といえば、そこ以外にないのだ。
 ただの推測にすぎないが、昨日、シャルと敵対している青封の男がユージュと接触していたのは友好を持つなどといったものではなく、アヴラルの誘拐と何かしら関係があるのではないか。現にユージュはその日、行方をくらましている。
 ならばやはり、孔衛団に戻って、あの男やユージュが誰かに手がかりとなる言葉を残していないか確認すべきだった。
 シャルはふっと息を吐いたあと、文机から腰を上げ、しっかりと前を見て無人の部屋を出た。
 入り口前に留まるよう命じていた従寄の背にまたがり、手綱を翻すようにして、狭苦しく貧しい住居をあとにした。
 
●●●●●
 
 孔衛館の敷地内にある厩舎へ従寄を預けに向かった時だった。
 背後に人の気配を感じ、従寄ごとそちらを振り向いた。
「キカ?」
 シャルは少しの驚きと共に名を呼び、じっとキカを見下ろした。
「来ると思った」
 キカが楽しげににやりと笑い、腕を組んで視線を返してきた。
「煮詰まったシャルがどんな行動を取るか分かりきっていたからな。面倒を省いてやろうと思ったのさ」
 相変わらずの軽い口調で言い切り、シャルの従寄の額を撫でて、どこか自慢げな顔を見せる。
「残念ながら俺は見ていないが、お前、やたらと小奇麗な子供を連れてきていたんだって?」
 シャルは思わず苦い表情を浮かべて、キカのとぼけた顔を睨んだ。
「ま、詳しく話したくはないというのならば、それでいいさ。シャルが知りたいのは、お前にひどく絡んでいたあの男の動向だろう?」
 溜息が漏れる。
「あのね、キカ」
「はいはい、俺ってなんて役に立つ男だろう。少しは惚れるべきだと思うね」
 再度溜息を漏らしそうになり、口を閉ざす。
「なあ、知りたくないかい? お前にとって必要な情報を俺は手にいれたかもしれないぜ」
 このまま立ち去りたいという感情が芽生えたが、そういったシャルの胸中を察したのか、キカが不意に表情を改め、怜悧な眼差しを寄越した。
「まあ、聞けよ。お前が今、ここの連中から話を聞き出そうとしても、恐らく徒労に終わるだろう。レンダの猛毒から生還した者など今まで存在しなかった。本来それは喜ぶべきことであるはずなのに、つまらぬ噂一つで他者の心理など容易くひっくり返るものさ。特異な現実は、時に排斥の原因となる。青封の阿呆共が不必要に騒ぎ立てたために、お前、化け物扱いされているよ」
 今度は我慢せず、舌打ちした。それでは話を聞きたくても、皆こちらを敬遠するだろう。
「頼れ、シャル。俺はお前を評価しているのさ。未だ明かしていない部分が多かろうと」
「疲れることだ」
 本音を正直に告げると、キカは低く笑った。
「俺は女が好きだが、我を失うほどではない。無論、打算を持っている。だからこそ頼れ。これほど明確な取引はないだろう? 親切ごかしに近づく奴よりも、余程信用できないか?」
「何を見返りに求める?」
「お前の力かなあ。しかし、まだ掴み切れぬからな、保留にしておこうか」
 全く面倒だとシャルは内心で辟易し、また、キカを頼るべきか逡巡した。他人を引き寄せたくはないと強く拒絶する気持ちがあるものの、ここでその手を振り払い、恐らくは無駄に終わるだろうと知りながら孔衛団の者に訊ねてただ時間ばかりを費やす愚かさが、今後の展開にどう影響を及ぼすか、現実と秤にかけねばならなかった。
「……容易きこと。喋らぬならば、その気にさせればいい」
 どうせ相容れぬ者、何を躊躇うことがあるのか。自分にとっての優先順位を定めれば、迷いは消えるというものだった。
「お前、まさか団の者を拷問にでもかける気か? 徒らに敵を作ってどうする」
「いいや、違うね。キカはわざわざ私のために情報を得てくれたんだろう?」
 笑いかけると、キカが言葉に含んだ剣呑な意味を察して顔色を変えた。
「とんでもないことを言いやがる」
「自分の甘さをつくづく痛感したばかりだからね。反省したんだ。お前から聞くのが一番早いだろうか」
「お前なぁ、俺の口を割らせようというのか。どうして一言、素直に教えてほしいと言えないんだ」
「言いたくないから。見返りを求められるのはご免だ」
 シャルは本気だった。誰にでも情愛などは抱けない。後々に足を取られるくらいならば、無意味に己の領域に引き寄せるのではなく、必要なもののみを搾り取ればいいだけの話だった。
「シャル!――お前、それほど俺を見下げ果てるのか。僅かなりとも、お前の目に俺はかなわないか」
「そんなことを論じている場合じゃないからね」
 キカの方が剣技は優れている。だが呪力を持つシャルの方が分がある。力というのは、全く、これほど簡単に情をも叩き壊す。
 キカが大きく舌打ちをし、苛ついた様子で首の後ろを撫でた。
「馬鹿が! ならばこう言えばいいか。今ここで俺を潰すのは得策ではないと。なぜなら俺は、お前よりもうまく立ち回れる。力には限度があるが、それを利用せずとも道を開くことはできるのさ」
「どうでもいいよ」
 モルハイの人間など、唾棄すべき存在なのだ、今のシャルには。特に雄弁な者は最も退けなければならないのではないか。
「なあシャル。俺は、故郷を奪われた人間だ。ゆえに故郷というものを憎み、また望む人間だ。俺は俺の故郷を自らの手で作り出したいと願い、その成就のために命を捧げるつもりなのだ。力がほしい。己の力のみでは叶わぬ夢ならば、共鳴する者の力を求める」
 燃えるような執着がキカの目に映り、シャルは一瞬、飲まれた。故郷を、己の手で作ると?
 自分は――なぜアヴラルを連れて、あてどもなく旅を続けているのだったか。
 安息の地をただ得たいが為に、彷徨しているのではなかったか。
「そして俺は、お前の中に飢餓を見た。いや、それは幻影にすぎぬのか、あるいは別の欲求を読み違えたのか、まだ分からぬことだ。だが、お前は何かに飢えている。俺が故郷の影を追うように。お前はその何かを得るため、別の何かから逃げている。そのように見えたのだ。ならば、取引をと考える。俺が望むもの、お前が望むもの、互いの飢えを満たす為にな」
 急速に、キカが抱く渇望に引き寄せられた。
 指摘通り、シャルは恐らく、過去に失われた平穏に飢えているのだろう。だからこそこうして幾つも町を巡り、落胆を繰り返す。安息の地。家族の肖像。砕け散った安らかな時間を取り戻すことを望みながら、現実は戦いの中に飛び込み、風のごとく地を巡っている。アヴラルさえいなければ、余程の事情がない限り、シャルは生まれ育ったあの地で暮らし続けただろう。けれども、あの地は故郷でありながら、安息の地ではなくなった。家族の未来を断たれた地は、最早自分の嘆きと憎悪の墓場でしかなかったのだ。
 アヴラルは受け入れられぬ魔の子であるはずだった。ところがシャルが胸の底で渇望する慈しみをまさに理想通り――体現している子でもあったのだ。弟と同じ目の色を持ち、言葉だけではなく空気の温度と眼差しで、心の全てで、シャルが必要なのだと脇目もふらず真摯に求めてくる。そうだ、恐ろしさを感じるほど、シャルが守り切れなかった願望を見せつけてくれる。どれほど、どれほど苦しく思っただろう。何よりも手に入れたいと、壮絶なほど望む愛おしさが目の前に存在するというのに、それは過去の憎しみを裏切ることになる禁断の果実なのだ。
 欲することが許されぬ。それは自戒だったというのに、なんて人は脆く移ろいやすいのか。
 ここでアヴラルを受け入れてしまえば、過去の自分が味わった呪わしい憎しみは一体何だったのかと思う。血肉の海の中、震える手で、母親の砕けた骨の欠片を拾い、弟の潰れた目を掴んだ時の、あの壮絶な憎悪の深淵は。果てがないのかと嘲笑したくなるほど、深く心が落ちていった。世界が存在しても、シャルという個人の世界は砕け散った。心の一部は今もあの地、あの過去に醜く埋葬されたままだ。それなのに、家族を守り切れなかった自分が、安らぎを再び欲して、過去の上に新たな平穏の時を重ねて許されるというのか。魔の子に情を注いで?
 人ならばいい。だが、アヴラルは。
 理解している。シャルの家族を死に追いやったのは、同じ魔という種であっても、アヴラル本人ではない。シャルが固執する偏ったこだわりは、全く筋違いといえるのかもしれない。人だとて人を殺す。恨むべきは直接手を下した者で、無関係な人々にまで、罪をなすりつけるという道理など間違っている。
 あぁ、アヴラルは、人の血も受け継いでいる。
 けれどもシャルは恐れを抱く。
 アヴラルを受け入れた後に、万が一魔の性が覚醒した場合、もう平静を保てなくなる。欲する思いが強い分、自分の方がいずれ訪れるかもしれぬ非情な現実に耐え切れなくなるだろうと容易に予想がつく。
 なぜなら、シャルとアヴラルでは明確な立場の差が存在する。
 シャルがアヴラルを受け入れる時――それはある意味、己の全てを抛つような覚悟のもと、魔性の部分をも認識することに他ならない。ところがアヴラルの場合は、事情が異なるのだ。
 アヴラルが生まれ落ちた時、側に存在したのがシャルだけという単純な事実。雛が初めて目にした動くものに愛着を感じるのと変わりがない。歴然とした意志と覚悟をもっての執着とはとてもいえない。要するに、庇護を与えてくれる者ならば、シャルでなくともアヴラルは必要としていただろうということなのだ。決定的にこちらとは覚悟の重みが違う。
 だからこそ、受け入れた後の未来が恐ろしい。
 キカは、詳細な事情は分からぬが、故郷が欲しいと激しく渇望している。シャルもまた、似たような切望を抱いている。
 仮にアヴラルが自分の手を離れた時、故郷と呼べる場所を持っていたならば精神は破壊されずにすむのだろうかと、己でも嫌悪するほど卑屈なか弱い期待を抱いてしまう。
「今すぐ腹を割れとは言わないさ。だが、この場は、とりあえず俺を信頼してみないか?」
 キカは不意に高揚を静め、穏やかな顔つきになってシャルを見上げた。
「まだ先のことなど分からぬ。だが今は、俺はお前に興味があるし、お前は俺が必要ではないのか」
 シャルは長いこと沈黙し、やがて吐息を落とした。



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