砂の夜[3]
何かがおかしい、とアヴラルは悟った。
人気のない暗く沈んだ夜の道を滑るように進むユージュの従寄に同乗させてもらいながら、アヴラルは吐息を飲み込む。乾いた空気に混じる緊迫感のおかげでわずかではあるが頭が冷え、先程までの物狂いによく似た恐れを冷静に判別しようという気持ちが芽生えた。
不吉な予兆は住居を出る前から、分かりやすい形で示されていたのではないか。たとえば、人ではなく物品を矯めつ眇めつするような、薄闇に彩られた不透明な欲を滲ませるコロノの眼差しに。
また、決して目を合わせまいとするユージュの頑さも、角度を変えてみれば不自然に思える。シャルの危篤に怯えるアヴラルへの配慮とは言いがたい、どこか冷たく突き放すような硬質な態度は、言葉の奥に含まれている虚偽を隠匿するための無意識の壁ではないのか。
大気をそっと割って前進する従寄の上で、アヴラルはかすかに顔を強張らせた。どういうことなのかとすぐ後ろに騎乗しているユージュへ一言、詰問することができずにいる。まるでアヴラルの逃亡を警戒しているかのように、手綱を掴みつつもこちらの動きを封じている。
この人達は誰なのだろうとアヴラルは漠然と考え、頭痛を覚えた。見知った顔であり、言葉もかわしている。けれども、それだけでは人となりまで知り尽くしているとはいえぬのだと初めて痛感する。ならば、町中ですれちがうだけの他人と、何の差があるだろう。
薬師のもとへ向かうと言ったのに、従寄が目指す方向はモルハイの外門としか思えなかった。胸中に広がる違和感に耐え切れなくなり、アヴラルは意を決したあと、身体を少し捻ってユージュへ視線で問うた。ユージュはこちらの疑念を察しているに違いないというのに、闇をも切るような剣呑な眼差しを前方に定めたまま、拒絶の態度を軟化させようとはしなかった。そこで、アヴラルは確信する。シャルの安否についての真偽は定かではないが、とにかく自分をどこか別の場所へ移動させる理由が彼女にはあるのだと。
だが、なぜ。
アヴラルには理解できない。切迫した金銭的事情などで自分の面倒を見る余裕がなくなり、シャルに無断でどこかへ置き捨てようとしているのだろうか。自分に価値がないことなど、嫌気がさすほど深く自覚しているのだ。
怖い。ユージュという名を持った、見知らぬ女性が。この女性を、素直に信頼できなくなっている。
どこまでも自分の浅薄さに苦しめられる。最初に会った時、シャルは彼女の同行をひどく反対していたというのに、結果として押し切る形で受け入れさせたのは、他の誰でもないアヴラルだ。シャルのように危機の訪れを予見できぬ自分の至らなさや甘さにこういう時鋭く気づかされ、更なる嫌悪を呼ぶ。困難に前途を阻まれ嘆く人を助けたいと思うのは人としてごくありふれた心理、しかしながらその後にもたらされる責任や労苦を別の者に預け決断させてはならなかったのだ。自分の力で対処できぬならば、シャルの判断に大人しく従うべきだった。全てはアヴラルの過ちだ。
外門付近まで近づいたユージュの従寄は、何度か周囲の様子を窺うようにぐるぐると徘徊し、やがて門番が仮睡眠を取るのだろう休息所の天幕へと静かに向かった。こちらが近づく気配を察したのか、すぐに中から一人の男が油断のない態度で姿を現し、従寄の横に身体を寄せてアヴラルをじろじろと眺めたあと、合図するように指を閃かせ、休息所の死角となる外門の隅にまで移動した。ユージュは無言のまま、反論する様子もなく男のあとに従う。
門の影に隠れるようにして従寄が一頭、用意されていた。男は身軽な動作でその従寄に騎乗し、ユージュに目配せしたあと、進み始めた。口を開こうとするアヴラルの肩をユージュが意外なほど強い力で押さえ、再び男のあとを追う。
到着した場所は休息所から距離を置いた、打ち捨てられた風情の小屋の前だった。賢い人間ならば夜も深まった時刻にこの辺の一人歩きはしないだろうという、不穏な気配が満ちる場所だった。
「この子でしょ」
ユージュが辛うじて聞き取れるほどの小声で男に問うた。
従寄の上で硬直しているアヴラルを、男は舐め尽くすように眺め回し、満足げに深く頷いた。
「ああ、そうだ。こうして暗い中でも分かる大層な小奇麗さだ。よく連れてきたな」
「こっちも危険なんだから、のんびりしてられないのよ。早く分け前、欲しいんだけれど」
アヴラルを挟むようにして、意味不明な会話が短く続けられた。
「ユージュ。……シャルは? ここ、どこですか」
アヴラルについて話しているのだろうに、どこか置き去りにされた感があることに恐怖を覚え、急いで二人の会話に割り込んだ。滑稽なほど必死な様子がおかしかったのか、男がくっと息を溜め込むような嫌な笑い声を漏らす。
「こりゃあいい。馬鹿な子ほど扱いやすいってもんさ」
「ねえ、早く分け前!」
「うるせえ女だなあ。がめついったらありゃしねえよ」
「何言ってるのよ」
険しさを増すユージュの声に、アヴラルは条件反射で身を揺らす。
「ユージュ。お願いです、シャルはどこに」
「ああうるさい! あんた本当、馬鹿ね。普通、気がつくでしょ。こんな場所にあんたの保護者がいると思うの」
予想してはいたが、こうしてきっぱりと断言されると、血の気が引く。
「どうして? なぜ、僕をここに」
「嫌だ、この子ったら」
本気で嫌そうな顔をするユージュを見て、男が腹を抱えて笑い出した。
「一体あんた、今までどんな風に育てられたのよ」
アヴラルを責めているようで、実はシャルを嘲る問いなのだと気がついた。だからこそ、アヴラルは何も言えず唇を噛み締めるしかできない。
「本当、あんたみたいな子供、少しは苦労すればいいのよ」
「……シャルに、会わせてくれるんじゃないんですね」
アヴラルの言葉に、男がまだしつこく笑い続けていた。苦しくなるほど真剣にたずねているというのに、なぜ男がいつまでも笑うのか理解できない。ただ、心の表面を目の粗い砂でこすられたかのような感覚が生まれた。
「可哀想になあ、坊主。お前、売られるんだよ。分かるかい?」
男の猫なで声に、アヴラルは俯けていた顔を上げ目を見開いた。売られる?
「僕が?」
「そうそう。僕がだ。鳥や果実と同じようにな、商棚に乗せられて売られるんだ。だがお前ならば、いい値がつくだろうよぅ」
重心が一気に下がった感覚に襲われた。売られるって、自分が?
「ど、どうしてっ」
アヴラルは混乱し、身を大きく捩って従寄から降りようとした。ユージュの腕を振り払うのは難なく成功したが、足が地につく直前、こちらの行動を察して待ち構えていたらしい男に身体を抱き上げられてしまう。
「嫌です、離して!」
「おっと、案外威勢がいい」
暴れても、全く相手にされていないのが分かり、益々恐ろしさが強まる。
「シャル! シャルの所に行きたい!」
叫んだ瞬間、男の荒れた大きな手に口を押さえられた。汗ばむ手の感触や強い体臭にかすかな吐き気と嫌悪を覚える。
「まだ分かっていないの? ねえ、どうしてわざわざこのあたしが、あんたを連れ出したと思っているのよ」
それまで気怠い様子で顔を歪めていたユージュが、ふと嫌味な風に唇を歪め、男に押さえつけられているアヴラルの顔を覗き込んだ。
「あんたの保護者に頼まれたに決まっているでしょ?」
「……!?」
「もう嫌になったんだって。顔も見たくないって言ってたわよ。でも今まで散々面倒を見てやったんだから、最後くらいは謝礼が欲しいってねえ。だから、あたし、頼まれたの。分かるかしら? あんたを売るようにって、シャルにお願いされたのよ?」
幼子に言い聞かせるような優しい声音でユージュが残酷な言葉を吐いた。
アヴラルは痙攣するように身を揺らし、一層激しくもがいた。
嘘だ、絶対に、嘘。シャルはそんな卑怯な真似をする人じゃない!
「信じてないのね? どうしようもない子だわ。じゃあどうして、一度もあんたに顔を見せにこなかったのかしらね? 暇な時間ならいくらでも取れたのに」
頭の中が沸騰しそうになって、全身に汗が流れる。違う、聞きたくない、こんなのは現実ではない。
「あんたが側にいなくて、随分羽根を伸ばしていたわよ。シャルだってまだ若いんだし、子供連れにうんざりしたんでしょ。ねえ、よくあることなのよ。子捨てなんて。間引きなど珍しくもないし。あんたの場合は、それだけの容貌だから、運が良ければ裕福な豪族に買ってもらえるわよ」
涙がこぼれ、ユージュの顔が見えなくなった。
本当だろうか。シャルはもう心底愛想が尽きて、自分を売ると決めたから、一度も会いに来てくれなかったのだろうか。
信じたくないが、己の無能さを理解しているだけに完全にはユージュの言葉を否定できない。
あぁ、心に、亀裂が――。
「何? その顔。あたしの言うこと、疑うわけ。そんなにシャルは正義で、清廉だって? あのねえ、そんな聖人、この世のどこにもいないわよ。あんたの保護者だって善人面していても一皮むけばあたし達と同じ。必ず薄汚れた感情がある。ないだなんて、言わせない! そういう不平等、許さないわ」
「おぉ怖いねえ。女の確執ってのはよ」
「黙りな!」
男の冷やかしに、ユージュは唾棄するがごとく鋭く叫んだ。
「狡いじゃないの、同じなのに、何もあたし達と変わらないのに、当たり前の顔で施しを? 何様のつもりよ」
低く独白していたユージュが、そこではっと我に返り、アヴラルを射止めるような強さで睨んだ。
「いいわ、もう。早く行ってよ。分け前、頂戴」
「まあ、そう急くなよ。こいつだけじゃ、ちょっと足りねえよ」
「何?」
「あぁ、そら来た」
放心しているアヴラルの耳に、別の従寄が接近する音が届いた。口を押さえられているため顔を動かせないので、視線だけを音がした方へ流す。
「え……何? この子以外にもいるわけ」
布でくるまれた大きな荷を自分の前に置いた見知らぬ男が、従寄をこちらへ寄せてきた。よく見ると、その荷は抵抗するかのように動いている。――人間だ、とアヴラルは思った。自分と同様、売られる子だと。
「よくやるわ、あんた達」
「お前から持ちかけてきた話だろうが」
荷のように人間を運んできた男とユージュは顔見知りのようだった。すれ違いざまユージュの皮肉を軽く流しながら男は布で包んでいる人間を無造作に担ぎ上げ、小屋の中に入っていく。アヴラルの横を通り抜けた時、布の中の人間が苦しげに呻く微かな声が聞こえた。その押し潰されたごく小さな声。
リタル!?
アヴラルは愕然とし、再び激しくもがいた。
「暴れるなって」
アヴラルの動きを封じていた男が、呆れた口調で言い、さらに強く口を押さえてくる。
ユージュは今の声に気がついていないのか。それともあれほど可愛がっていたリタルまで見捨てるつもりなのか。
問いただしたくても、男の手に封じられている為、声が出せない。死に物狂いで視線だけをユージュに向けるが、こちらを見ようとはしてくれなかった。
「ねえ、分け前!」
「しつけえ女だな! ガラフィーが来なきゃ俺達も分け前にありつけねえんだよ!」
ユージュと休憩所にいた男が罵り合う中、リタルらしき人間を小屋の中に置いてきた男が出てきて、粘つくような笑みを投げかけてきた。
「お前らはよ、うるせえったら」
「あんたに言われたくない」
ユージュの苛ついた声に、男は嫌な笑みを濃くした。
「にしてもお前よ、あの女に恩があるんじゃねえのかよ。世の中、腐っているねえ」
男が嘲笑を見せて、もがくアヴラルを視線で貫いた。
ユージュが片手で額を押さえ、己さえも許さぬような乾いた声で笑った。なぜかユージュはアヴラルよりも傷ついている気がした。
「何さ、ハスライ。一番腐り切っているのは、あんただよ」