砂の夜[4]


 その後、ガラフィーという名の男が到着し、アヴラルと未だ布に包まれたままのリタルは別の従寄に乗せられ、ユージュ達と離れることになった。ユージュは最後まで、荷の中身がリタルであると気がつかなかったようにも見えたし、あるいは既に理解しているからこそ落ち着いているようにも見えた。アヴラルがあんまり激しく抵抗する為か、途中でリタルと同様、布に包まされたあと、幌で視界を遮断している荷車の中へ投げ込まれてしまった。人目を遮るために荷車を利用するつもりなのだと分かった。
 どの程度時間が経過したのか、判断できなかった。荷車から伝わる振動で横倒しになっている身体が痛く、汗が涙と混じる。怪我を負っているわけではないのに、精神的にも肉体的にもひどく疲労していて意識が朦朧とし始めた。どうしてこのようなことになってしまったのか、今ですらアヴラルにはよく分からない。過去に犯した過ちのどれが命運を陰らす決め手になったのか、それさえも判別しがたく、ただ嘆きと絶望のみがとどまることなくこみ上げてくる。
 シャルは本当に無事なのか、たとえこのまま自分が売買されるのだとしても、それだけでいいから知って安堵したかった。心が砕け散りそうなほど悲しく、受けた衝撃は深いけれども、あくまでアヴラルが重要とするのはシャルの安全であり、唯一の信念とさえ言えた。そうだ、絶対にして唯一。自分の中で決して違えることのない認識なのだ。
 死なねばいい、自分は死のみを遮ればいい。シャルの生を保障するだけに、全力を傾けること。
 その努力を続けていれば、シャルはいつか、会いに来てくれるだろうか?
 
 
 いつの間にか意識を失っていたらしかった。
 乱暴に身体を固い床へ降ろされた衝撃で意識が揺り起こされ、重い瞼が否応無しにひらく。
 霞む視界は瞬きを繰り返すうちに、徐々に明らかになり、同時に周囲の物音も拾えるようになった。
 床に仰臥したままぼんやりとしているアヴラルの横に、布に包まれた大きな荷がどさりと置かれる。リタルだ。
 周囲の景色が見えるということは気絶している間に身体を束縛し視野を遮っていた布は外されたのだろう。自分達は一体どこに運ばれたのだろうかと、ようやく正常な思考が戻り、心臓の音が高くなった。
 子供の軽い足音とは違った、重い靴音。再びどさりという音が響く。自分が目覚めたことをガラフィーという男に悟られるのは恐ろしかったので、アヴラルは横たわった状態で視線だけを動かし、現状の把握につとめた。
 アヴラルはぎょっとした。リタルと自分だけが攫われたのかと思っていたが、この部屋には他にも数人の子供がうずくまっていてどこか魂を失った暗い表情を浮かべていたのだ。鼓動が更に速くなり、緊張感も増す。
 小狭い室内には調度品の類いは一切なく、毛布代わりらしい古びた厚布と、子供達が使用したらしい汚れた皿が床の隅に置かれていた。窓が存在しないことから判断して、アヴラルのような子供達を一時的に隔離するための、地下に設けられた隠し部屋かもしれなかった。一時的と推測したのは、この狭苦しい部屋が寒々しく感じられるほど殺風景で生活臭の一切がないためだ。余分なものは何一つなく、誰が見ても人の目を遮断するための監禁部屋としか思えぬ造りだった。ただ一つの出入り口である扉には、通路側からのみ施錠できる頑丈な鉄鍵が取り付けられているようだった。もとは地上の戦火を免れるため、そして貴重品や非常食を備蓄しておくための蔵だったのではないかと思う。
 ガラフィーの足音が遠ざかった頃合いを見計らって、アヴラルはぎしぎしと痛む身体を緩慢に起こし、心細い思いを堪えて再度室内の様子を窺った。扉の両脇の壁に灯りが取り付けられていて、弱い暖色の光を室内に広げていた。
 アヴラルはぎくしゃくと行動を起こし、リタルを包んでいる布を慎重に取り外した。
「リタル」
 躊躇いながらも何度か名前を呼び肩を揺さぶると、リタルは苦しそうに顔を歪めたあと、ゆっくり瞼を開いてどこか虚ろな眼差しをアヴラルへと向けた。
「リタル、起きてください」
「……アヴラル?」
 アヴラルはこくりと頷いた。
「ここ、どこなの?」
 リタルはしばらくの間、夢見心地の表情を浮かべていたが、次第に意識が明瞭になってきたらしく、普段と異なる部屋の様子に気がついて高い声で詰問してきた。濁った気配を持つ静寂の中、自分が発した問いかけが重く沈むのに恐れをなしたのか、リタルは悲鳴を堪えるかのように喉を鳴らし、僅かに身を起こして胸の前でぎゅっと両手を握った。
「やだっ、何、ここ、どこ!」
 驚きと恐怖をたたえたリタルの小さな声に、アヴラルもまた大きく不安を駆り立てられ、涙を落としたくなる。
「この子達、何? ねえアヴラル、どうしてあたし達、こんな所にいるの」
「分かりません」
 アヴラルの腕にしがみついてきたリタルの手が細かく震えていた。新参者であるアヴラル達の怯えに、部屋の壁にそれぞれ寄りかかって座っていた子供達が、無感動な乾いた視線を向けてくる。
「姉さんは?」
 大きな瞳に涙を浮かべるリタルの悲痛な問いかけに、アヴラルは言葉なく首を振った。本当に分からない。ユージュが、自分の妹であるリタルまで見捨てたのか。シャルが事実、厄介者のアヴラルの世話にしびれを切らし、売り飛ばすことを決断したのか。どちらも非現実的だと思えるのに、現状がその甘い認識を許さない。
 突き詰めて考えるのは、底のない穴を覗き込むかのような壮絶な恐ろしさがあった。
「アヴラル、どうしよう、逃げなきゃ。こんな所、今すぐ出なきゃ駄目。姉さんがきっと探しているもの」
 リタルに強く腕を掴まれ、急かされたが、アヴラルはその場にへたり込んだまま、立ち上がれずにいた。
「立って、アヴラル!」
 立って、それからどこへ向かえばいいのだろう?
 シャルに見放されたかもしれないという恐怖が、アヴラルの行動を制限している。リタルのように毅然と迷いを払拭できないのだ。
 もし、その悲しい恐怖が真実であるならば、アヴラルがこの地下室から逃亡して戻るという身勝手な行為は、シャルにとって迷惑でしかなく、不実でもある。
 ユージュの言葉が明瞭に蘇り、その衝撃に再び苦痛を覚えて、アヴラルは自分の胸を強く押さえた。なんて痛い現実なのだろうと、血がにじむほど唇を噛み締めた。
「姉さんに知らせなきゃ。コロノよ――そうだ、コロノさんがあたしを無理矢理あの男の所へ引きずって」
 叫びながら記憶を辿っているリタルへ、はっと顔を向ける。
 ユージュが原因ではないのか。自分の場合とは異なり、同居人であるコロノがこの機会に乗じて、リタルまでもを男達の手に引き渡したというのか。自分の推量が的外れとは、残念ながら思えなかった。アヴラルやリタルを眺める時の、価値を調べるかのような眼差し。もしこの推測が正しければ、コロノは親しき仲であるはずのユージュ達を裏切ったということになる。
 嫌だ、とアヴラルは強く目を瞑った。疑心ばかりに囚われる自分。とても醜い心根だと思う。だからシャルに幻滅されてしまったのだろうか。
「ねえ、あんた達も座ってないで、ちゃんとしなさいよ!」
 リタルの悲鳴のような叱咤に、壁に寄りかかって膝を抱えていた子供達がびくりと肩を揺らした。
「……売られるんだよ、俺達」
 子供の一人が、ひどく暗い眼差しでリタルを睨みつけた。
「え?」
「売られるんだよ、俺も、あんたも」
「な、何言ってるの。あたし、違うもの、姉さんが許さないもの」
「俺は父さんにここへ連れてこられたんだ。お前だって、姉さんに売られたんだよ」
「嘘!」
 悲痛な甲高い叫び声がリタルの口から迸った。
「アヴラル! 嘘だって言って。こんなの間違いだって」
 言えない。なぜならアヴラルの胸中には、ユージュの言葉が真実なのではないかという迷いがある。
「嫌、嫌! 出して、あたしは違う、お願い、ここから出して!」
 リタルが泣きながら部屋の扉に飛びつき、小さな手で拳を作って何度も叩く。
「……無駄なのに」
 別の子供が無感動な声で呟いた。
「好きにさせとけば。俺達は商品だから、身体を傷つけられることはない」
 また別の子が口を挟む。
「出してと訴えて、自由にしてくれるんなら毒だって飲む」
 また別の子が、床の一点を見つめてそう言った。
 
●●●●●
 
 泣き疲れてぐったりとしているリタルを隣に座らせた時だった。
 軋んだ音を立てて扉が開かれ、アヴラルや子供達はそちらへはっと視線を向けた。
 ガラフィーという男と、見知らぬ青年が何かを詰めた袋と水筒を持って室内へ入ってくる。
「飯だ」
 ガラフィーが素早く閉めた扉に寄りかかり、子供達を監視するかのごとく鋭い目で見回したあと、短く告げた。
 袋と水筒を持った青年が子供達の前で身を屈めた。子供達は皆、無言で床に置かれていた皿を持ち、青年の側へ近づいた。青年が袋の中から旅人が携帯食として持ち歩く食料を取り出し、差し出された子供達の皿へ均等に乗せていく。新参者であるアヴラルとリタルだけはその輪に加わらず、ただぼんやりと彼らの姿を眺めていた。
 ふと青年が視線を上げ、子供達に水筒を回したあと、袋の中から掴み出した食料を持ってこちらへ近づいてきた。
「お食べ」
 人買いなどとは到底信じられぬ、柔らかい声音を持った端正な青年だった。繊細な雰囲気があり、この状況との落差に戸惑って恐る恐る青年の顔を窺う。
 青年と目があった瞬間、どきりとした。なぜか青年の方も、驚いた表情を浮かべアヴラルの顔を凝視した。
 自分と瞳の色が似ている、とアヴラルは思った。緑の色。僅かに、自分の方が濃いかもしれない。
 青年は瞳の色に合わせているのか、緑の石をつけた上品な小ぶりの耳飾りを下げていた。
「早く済ませろ」
 容赦のないガラフィーの催促に、青年が目を瞬かせ、我に返った様子でアヴラルとリタルの手に食料を乗せた。
「――いらない!」
 突然、リタルが絶叫し、手に乗せられた食料を青年に投げつけた。
「こんなの食べない。アヴラルも食べちゃ駄目、だってあたし達、売られてないんだから!」
 ガラフィーはリタルの懸命な訴えにも、全く顔色を変えなかった。
「餓鬼共を寝かしつけろ。あとで寝室に来い」
 ガラフィーは子供達を無視し、冷たい視線を青年に向けて鍵を無造作に放ったあと、さっさと部屋を出ていった。青年はどうしてか、深く悲嘆しているような、それでいて諦観が滲む眼差しで、ガラフィーが閉めた扉を長い間見つめていた。
「ねえ、あたしもアヴラルも、売られてないわ。お願い、姉さんの所に帰して」
 呆然と立ち尽くしていたリタルが一度身を震わせ、跪いている青年の腕にしがみついた。
「お食べなさい」
「嫌っ、あたし、売られる子じゃないもの!」
「私に言われても」
「だって、あの男の仲間なんでしょ」
「私はただ、食事を運べと言われているだけだから」
 青年は感情を抑えた口調で、淡々と言葉を返していた。
「あたしの姉さんが許さないわ、こんな間違い」
「君達の事情など、知らない」
 青年は決してリタルと目を合わそうとしなかった。好んで人買いの手助けをしているようにはとても見えなかった。
「じゃあ、お願い。姉さんに連絡を取って。姉さん、ユージュっていうのよ。アヴラルにもお姉さんがいるの。ねえ、アヴラル? お姉さん、シャルって」
 リタルが必死で言葉を紡いだ時だった。
「シャル……?」
 別の場所に意識を置いていたかのように表情を消していた青年が、愕然とした顔でアヴラルを見たのだ。
 ――この人、もしかしてシャルを知っている?
 青年の過剰な反応にアヴラルも驚き、思わずよろめくようにして立ち上がり彼の膝にすがりついた。
「シャルを知っているんですか?」
 信じられない、本当だろうか? シャルを知っているのか。
「まさか、君……君、シャルの」
 青年は目を見開き、まるで恐れをたたえているかのように声をひそめた。
「そうよ、アヴラルの姉さん、シャルっていうの。あなた、シャルを知っているのね! お願い、アヴラルの姉さんに連絡を取って」
 リタルが希望を放つかのように勢い込んで青年に頷いた。
「弟? 君が?」
 正確には、アヴラルはシャルの実弟ではないため、肯定すべきか否か逡巡した。と、突然、青年が両腕を伸ばして困惑していたアヴラルの頬を包んだ。まるで鏡のようによく似た緑の瞳がアヴラルを突き刺す。
「わっ、わぁ」
「嘘だろう? だって、あの人の弟は」
 青年はどこか放心した表情で独白し、至近距離でまじまじとアヴラルの顔を観察した。
「君の姉は、呪術師? 白い髪の」
「う、あ、はい」
 青年の剣幕に気圧され、アヴラルは咄嗟に頷いてしまった。
「そんな」
 なぜこの青年がこれほど驚愕するのだろう、とアヴラルは不思議に思った。
「あの、シャルを知っているんですね。シャルは、無事ですか。どこも怪我をしていない?」
 自分の両頬を包む青年の腕を、アヴラルは必死に引っ張り、今一番知りたい気持ちをぶつけた。
 シャルの安否を何より聞きたい。なぜなら、彼女の命が、自分の中で最も尊いのだ。
「シャル、元気でしたか?」
 青年はなぜか化け物でも見るような目でアヴラルを見返したあと、大きく顔を歪めて俯いた。
「……死んだって、仰っていたのに」
「え?」
 青年の独白の意味が分からなかった。
「ねえ、ねえ。アヴラルの姉さん、知っているんでしょ。だったらあたし達のこと伝えて。そうしたら、売られただなんて間違い、すぐに分かるんだから」
 青年とアヴラルとのやりとりに焦れたらしいリタルが、再び声高に要求した。
「……間違いじゃない」
 青年は、伏せていた顔を上げ、激しい感情を宿した目をひたりとアヴラルに向けた。まるで憎しみの矢を放つかのような目に、アヴラルは仰天した。
「君たちは、売られたからこそこの場に連れてこられた」
 ひっとリタルが息を呑んだ。
 事実なのか、やはりユージュの言葉は。
 だが、それでも。
「お願いです、シャルは無事ですか」
 それだけ、聞かせてほしい。
「お前、美しい顔をしている」
 別人に豹変したかのごとく青年の声音が冷酷になり、同時に強く顎を掴まれた。



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