砂の夜[6]
「ウサリ殿、まだ仕上げてはおらぬよ」
年嵩の女が、感情の変化が見えにくい乾いた表情の中に、僅かに鬱気を覗かせながら忠告した。ウサリと呼ばれた主人は、どこか呪わしい影をまとう女には目もくれず、にやけた笑みを顔にはりつけたまま、不躾なほどアヴラルの側に寄り、執拗に視線を注いでくる。
「これは上等な子だ。売るのは惜しい」
「馬鹿なことを。手元に置いても金とはならぬ」
即座に一蹴されたウサリが鼻白み、唇の端を曲げたが、すぐに気を取り直したらしく、怯えるアヴラルの顔を再度凝視したあと、棚に手を伸ばして掌に収まる大きさの小ぶりの壷を取った。
「銀仙を塗ってやろう」
やけに楽しげな様子を見せるウサリの台詞に、年嵩の女が顔色こそ変えないもののはっきりと呆れを含んだ視線を向けた。意味が掴めず身を縮めるアヴラルに見せつけるようにして壷の蓋を開け、ウサリが笑う。壷の中にはまるで砂漠の王の鱗粉を含んでいるかのように煌めきを持つ、とろりとした液状のものが入っていた。塗り薬の一種だろうかと一瞬考えたが、身体の奥にしみ込むような甘い香りが周囲に広がったため、すぐに違和感を覚えた。
ウサリは突然、甘い芳香に戸惑っているアヴラルの腕を掴んだ。小さく悲鳴を上げるアヴラルを片腕で軽々と持ち上げ、室内の片隅に置かれていた固い台座の上に乱暴な動作で降ろす。驚いて飛び起きようとするアヴラルを容易く御し、深い笑みをウサリは見せた。力の強さ、先の読めぬ行動に困惑以上の恐れが胸中に広がる。
薄い夜着のようなものしかまとっていなかったため、抵抗する間もなく帯を抜き取られ、素肌を晒された。腕からずり落ちる夜着の袖を慌てて引き上げようとするアヴラルの腕をウサリは面白そうな顔で封じた。
「なっ、何を」
「よい、玉のような肌だ。銀仙を濡れば更に艶が増す」
自分の指で銀仙をすくいとったウサリが、楽しくて仕方がないというような表情を見せた。アヴラルはその目の色に、絶句した。コロノや年嵩の女が見せた眼差しとはまた違う、嫌悪を覚える壮絶な目だった。粘りつくよう、と表現するより、絡みつくような――。
「う、う! 何――!?」
この時、ようやくアヴラルは、危機感からもたらされる恐怖を真剣に理解した。銀仙と呼ばれるとろみのある液を、ウサリの指で胸部や腹部に塗布される。仰け反りそうになるような冷たい液が、微かな煌めきを残して肌にすっと溶け込む。
「嫌です、やめて!」
肌の上を這い回る熱い指の感触が、全身が粟立つほど気味が悪くてたまらなかった。アヴラルは蒼白になりながら必死で暴れようとしたが、体格と腕力の差で全く歯が立たない。
「銀仙は肌に輝きを与え、色香を漂わせるもの」
「やめてください!」
脇腹から腕、臀部、すり込むように肌を撫でていくウサリの指が気を失いそうなほど嫌だった。他者に触れられるという行為がこれほど嫌悪を伴うなんて知らなかった。シャルにこづかれたり、髪を撫でられるのとは全く違う!
首筋をじっくりと撫でられた瞬間、本当に悲鳴が漏れた。気味が悪い、吐きそうだ。おぞましさが皮膚の奥に侵蝕していく気さえした。
思い切り叫べば誰かが聞きつけて来てくれるのではないかと混乱の中で考え、アヴラルは息を吸い込んだ。その時にウサリの指が太腿の内側に回り、深く撫で上げられて、音がしそうなほど全身が引きつった。目の前の光景が歪み出すくらいの嫌悪が募り、一瞬、頭の中が真っ白になる。
痺れの走る嫌悪感と、また全く別の衝動。涙が滲み、声なく悲鳴を迸らせた。
逃げたい。全部、消してしまいたい。
けれども!
我慢をしなければいけないのか?
イースを呼べば簡単にこの場から脱出できるかもしれない。だが、もし、シャルが事実、アヴラルを売り飛ばそうと考えているのならば――逃亡は許されないのではないか。
嫌悪と悲嘆と迷い。心が破裂しそうなほどに荒れ、ただ目を見開いて震えるしかできない。
シャル、助けて、助けて!
誰かに触られるのはこんなにも嫌だ。耐えられないくらいに辛い。それでも従わなくてはいけない?
「その辺でおやめ」
不意に冷静な女の声が響き、ウサリの手がとまった。
「その者はまだ精に通じてはいるまい。ならば無垢である方が、価値が上がる」
女の言葉に、ウサリが舌打ちした。
不規則な呼吸を繰り返すアヴラルを残忍な目でウサリは見下ろしたが、それでも女の論に異を唱えるつもりはないらしく渋々と手を離した。助けになったものの、真の意味での解放とは違うのだと遠退きそうになる意識の片隅で思った。
ウサリは内心の苛立ちを示すかのように再び盛大に舌打ちし、女を激しい目で睨んだあと、足音荒く部屋を出ていった。アヴラルは台座の上にへたり込んだ状態のまま、痙攣のように身体を震わせ、呆然とした。
「まあ、お前にとっては、ただ時期がずれるというだけのことさ」
女は素っ気なく言い放ち、気怠そうに鍵のついた衣装棚へ近づいた。
「さあ、お立ちよ。お前を飾らねばねえ」
女はやはり表情を変えず、手にした金の装飾品を掲げ、虚脱するアヴラルに歩み寄った。
「一国の主も見蕩れるだろう、お前は。見るがいいよ、いずれに献上してもよい」
茫然自失としているアヴラルの身を女はしげしげと眺めて誇らしげに賞賛した。
伸びかけの髪は真っすぐに撫でつけられ、月蛾の宝をちりばめた金の髪飾りをいくつも耳の上に差し込まれている。露にした額に垂れ落ちる黄稀の珠。繊細な金の鎖に合わせた同系色の宝石が目映く輝いていた。
重く感じるほど首元を飾る大粒の珠。幾重にも連なる飾り細工は、身動きする度に微かな音を立てた。片側の太腿、腕などにも蔓模様を彫り込んだ金の輪をつけられている。身にまとう淡い色の衣は上質ではあったがとても薄く、心細い思いばかりが先に立つ。腰部分にも帯の代わりに連状の装飾品が絡まっている。
宝石ばかりをふんだんに飾られて、アヴラルは更に具合が悪くなった。自分の存在までもが心のない宝石の一つに変貌してしまうのではないかとすら思った。
「化粧はあまりいらなかったかねえ」
女が迷うように呟いた。瞼や目尻に、金の粉をまぶされている。抵抗すればまた先程のように嫌な行為を強いられるのかという恐れもあって、声を出せずにいた。
身体の芯が、恐怖と嫌悪の息吹で凍り付いている。
シャル、僕はどうすれば?
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逃亡防止のためか、両手首に枷をはめられた。一見首飾りのような優雅な細工の首輪までも取り付けられ、鎖に繋げられる。
自分の身体を守るようにして室内の隅にうずくまり、時間が無為にすぎたあと、再びウサリが姿を現した。先程の行為を思い出してアヴラルは意識が霞みそうになるほど恐れ、接近するウサリをただ目を見開きながら窺った。
「痛……!」
ウサリの手によって鎖を乱暴に引っ張られ、アヴラルは抵抗できずによろめいて転倒した。だが、痛みはなかった。床に膝をつく直前、ウサリが手を伸ばしてアヴラルの身体を素早く抱き上げたのだ。
「嫌です、降ろして!」
この男は嫌だ。誰よりも嫌な真似をする!
ウサリの腕の中でもがく度、身につけた装飾品の数々がさらさらと繊細な音を立てて揺れた。
「大人しくしないか。いいか、お前は売られるんだよ。ならばよりよい豪族に買われるよう、しとやかに振る舞え」
残酷な言葉にアヴラルは喉を震わせ、動きをとめた。本当に、シャルが自分の売買を認めたのならば――従順な態度で命令をきかねばならない。
「おっと、泣くな。折角の化粧が落ちる」
泣くことも許されない。そういえばシャルも、アヴラルが落涙するといつだって顔をしかめて泣くなと叱咤した。
そうか、自分は異常だから人間のように泣くのは許されないのかもしれない。
けれども、魔物として生きたいとは微塵も思わないのに。
もう嫌だ。こういう自分が何より醜くて、惨めだ。
「そう、口を開けるんだ」
口内に吸引器のようなものの先端を差し込まれた。舌に触れた瞬間、ふっと白い霧が頭の中に広がり、思考が犯されていくのが分かった。
「――途中で暴れられたら困るからな。少しの間、大人しくしていてもらおう」
痺れ薬の類いをきっと舐めさせられたのだと気づいた時には、アヴラルは力なく身体をウサリに預けていた。
薬の効き目が切れた時、ようやくアヴラルは自分が寝かされている場所を把握した。
屋敷へ連行された時と同様、幌を降ろした荷車の中だ。
はっと驚き、身を起こした瞬間、強い眼差しとぶつかった。
「リタル」
リタルだけではなく、複数の子供達が乗せられており、その誰もが身なりを美しく整えられていた。
こちらを見下ろすリタルの目に涙はなく、嫌悪や別の感情をまじえた複雑な色を宿していた。
「……狡い」
「え?」
吐き捨てるようなリタルの声に、アヴラルはびくりと肩を揺らした。
「嫌いよ、アヴラルなんて」
嫌い、という言葉は百本の剣にも勝るのだと知った。なんて痛さなのか、深く、肉体を抉り、赤い血を飛散させるほどの痛烈な拒絶だ。
「アヴラルはいいわよね! こういうの、慣れてるんでしょ、何も傷つかないんでしょ! 弟だなんて言って、本当はシャルさんに買われただけだったんだものね!」
「違――」
売買は関係がないのだ、シャルはただ、否応なくアヴラルの命を拾わされただけなのだ。
弁明したくても、乾いた舌が動いてくれない。なにより、今のリタルに真実を語っても、拒絶されるばかりで耳を貸してくれるとは到底思えなかった。
「あんた達さ、うるさいよ。慣れていようがどうだろうが、どっちも売られることに変わりないじゃないか」
子供の一人がうんざりした様子で告げた。
一瞬の沈黙後、ひくり、と誰かが喉を鳴らした。それを皮切りに、数人の子供達が肩を震わせて泣き始める。
「鬱陶しい! 泣くのなら、着飾る前に泣いとけよ。化粧が崩れて、醜いまんま売られてみろ。いい買い手なんかつかないぞ。うまくいけば、それなりの暮らしができる。主人に虐げられて襤褸切れのように死ぬか、要領よく立ち回って奴隷の頭となるか――いいか、誰に買われるか、それがお前らの命運を分けるんだよ」
その子供は奴隷売買の仕組みに詳しいのか、泣き出す子達を叱咤しながら、怒りを抱いているかのように激しい目をして己の手を見下ろしていた。
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荷車から降ろされる前に、アヴラル達は皆、目隠しをされた。鎖を引かれながら、危うげな足取りで歩く。布で覆われた世界は黒一色で、その中に鎖の揺れる耳障りな音だけが鋭く響いていた。
しばらく歩かされるうち、目隠しの状態に慣れてきたのか、敏感になった意識が鎖の揺れ以外の音を捉えた。どこか遠方からざわめきが聞こえる。布で幾重にも隔てられているかのように不明瞭な音をもつ喧噪だった。その騒々しさが、炎が揺らめくようにうねり、接近する。いや、近づいているのは音ではない。アヴラル達がざわめきの方へ向かっているのだ。暗闇の中で聞く木の葉の囁きめいた喧噪は、どこかしら淫靡な吸引力を秘めており、無意識のうちにそちらへと魂が引きずられてしまう。強制的に歩かされているはずが、いつの間にか、ざわめきの誘いに堕ちて自ら望んで進んでいるような錯覚さえ抱いている。
アヴラルは不安定になりそうな自分を意識し、思考を巡らせた。何かを思案することは、正気を取り戻す第一歩ではないだろうか。
自分達はどうやら人が大勢待つ場所へと連行されているらしかった。
心細くてたまらないのに、どうしてなのか、緊張感を維持できずにいる。諦観に似た何か、落胆に似た何かが、アヴラルの心の一部を麻痺させているのだ。
疲れたな、とアヴラルは思った。
いくつもの町を巡って旅をしていた時、素っ気ない表情を見せながらもアヴラルの頭を無造作に撫でて眠らせてくれたシャルの手の感触が不意に思い出される。髪の毛をかき回すようにして撫でたあと、ぽんと軽く頭に手を乗せ、肩まで毛布を引き寄せてくれるのだ。
女性である事実に頓着せず、まるで屈強な戦士のように行儀悪く椅子に腰掛けて、暇つぶしめいた仕草で時折アヴラルをつつき、反応を楽しんでいたりした時もあった。危険がある時には、必ず自分が前に出る人でもあった。
強い風の日、遠くに出現した竜巻に怯えていると、少し意地悪そうな顔をして「あの竜巻くらいは私も作れる」と笑ったシャル。そうだった、彼女は風を操る術師。気づいた瞬間、アヴラルにとって竜巻はただ忌避するものではなく、恐ろしくも厳かなものに変わった。砂を舞い上げ、地形すら変化させる大いなる風の渦。柱状になり、天へと立ち上る様は、まるで一頭の狂暴な獣のようにすら見えた。ならばシャルは、風という凄まじい魔物を御する聖者なのだろう。
羨ましい。風はいつでもシャルと共にあり、シャルもまた盟友である風を手放すことはない。形のないものであればシャルの側にいられるというのなら、今すぐにでもこの身体を溶かしてしまいたい。
「おっと、お前はこっちへ来い」
アヴラルの思考を断ち切るかのように、野蛮な男の声が届いた。足音が先程よりも硬質さを増し、扉を開く時の軋んだ響きが聞こえたことから、恐らくどこかの部屋へと入ったのだろうと思う。
枯渇する心を、どうすればよいのか、アヴラルは途方に暮れていた。