砂の夜[7]


 目隠しの布を外される前に、アヴラルは食卓のような板の上に乗せられたらしかった。
 その後、首輪の鎖を何かに繋ぐ音が響き、ようやく目隠しの布を取ることが許された。
 アヴラルは初め、ぼんやりと周囲の様子を眺めていたが、意識を覆う霧が晴れると同時にはっと目を見開いた。まるで倉庫のように、周囲には荷の類いが数多く置かれている。そのどれもがめずらかであり、高価な品であるというのが分かった。
 ここはどこなのかと動揺し、身じろぎした瞬間、首にはめられた首輪の鎖が小さく音を立てた。視線を落とすと、鎖の先端は、アヴラルが座っている背の高い台座の縁の鍵穴にかけられていた。美麗な銀色をした楕円形の台座には透かし彫りの細工が施されており、縁の部分が少し盛り上がっていた。よく見れば、その縁部分は小さな炎と羽根の形を優美に象っている。
 鎖を台座の鍵穴にかけられているため、外さねば降りることができない。これでは何か、自分が台の上に乗せられた商品のようではないかと戸惑い、次の瞬間には、売られる、という言葉が脳裏によぎった。そうか、自分は本当に一つの物に過ぎないのだと、半ば呆然と理解した。
 出入り口らしき垂れ幕が下がっている方向から歓声のようなざわめきが聞こえ、アヴラルは緩慢な仕草でそちらへと顔を向けた。何かを競い合うかのような複数の人間の声と、鐘の鳴る高い音などが、やむことなく漏れ聞こえる。
「お前が出品されるのは市の終盤さ。だが、奴隷売買では誰よりも先。目玉とするらしいぜ」
 背後からかけられた低い声に驚き、慌てて振り向くと、身なりはいいが随分ときつい目をした若い男が腕組みをして、こちらを冷ややかに見下ろしていた。
「あの……」
「騒ぐなよ。大人しくしていりゃ、上客の目にとまるってものさ」
 声を発したアヴラルへ、煩わしそうに手を振ったあと、男が横を向いて言った。先程まで同行していたはずのリタル達がどこへ連れていかれたのか知りたかったが、男はさっさと身を翻して、音が漏れ聞こえる垂れ幕の方とは別の、隠し扉となっている出入り口から去っていった。
 一人取り残された形になり、逃走するのならば今がその機会なのかもしれなかったが、アヴラルは行動を起こさなかった。逃げて、一体どこへ向かえばいいというのか。もし真実、シャルが自分を手放すつもりだったのだとすれば、ここで逃亡するのは彼女の意に反してしまう愚かしい行為となる。
 何が真実で何が偽りなのか。
 分からないことばかり。どうしてこれほど分からないのか、そういう自分自身の存在もまた、分からない。
 分からないことは、罪なのか?
 アヴラルは深く項垂れ、自分の身を強く抱きしめた。
 
●●●●●
 
 アヴラルが座っている台座を屈強な体つきの男二人が掲げるようにして持ち上げたのは、この場に一人放置されてからしばらく後のことだった。その直前に、鮮やかな紫色の長布をすっぽりとかぶせられている。
 アヴラルはぼんやりと台座の上に座り込んでいたままだったため、突然現れた男達に台座ごと移動させられ、ひどく驚いた。全身を隠すようにしてかぶせられた長布の隙間からおずおずと周囲の様子を探り、どうやらざわめきが聞こえる方――人々が寄り集まっている場所へと連れられていることを知った。
 出入り口の垂れ幕を男の一人が片手で開いた瞬間、アヴラルは慌ててぎゅっと目を瞑り、俯いた。艶かしい橙色の明かりが垣間見えたと同時に、香の匂いがまざった熱気を感じて、淡い恐れを抱いたのだ。
 心の中で何度もシャルの名を呼び、壊れそうなほどに早い鼓動を意識しつつ、膝の上で自分の手を握り締める。
 シャルが側に存在しないのならば神々に祝福された楽園であっても恐ろしいというのに、このような見知らぬ人々で埋め尽くされた場所などはどれほど苦痛に感じることか。 
 台座が床に降ろされたらしく、床に固いものが当たる小さな音が聞こえた。二人の男は随分丁寧に台座の脚を床に降ろしたようだった。
「それでは次に、奴隷の競売を始めます」
 自分のすぐ側から、滑舌のよい男の声が響いた。その言葉は、台座の上で身を強張らせているアヴラルにかけられたものではなく、こちらに視線を集中させているらしい人々への合図に違いなかった。
 シャルと二人で町を歩いた時に感じた、多くの人の体温。重なってうねる囁き声。扇を翻すような音。驚くほどたくさんの人がこの未知なる場に詰めかけているのだろう。
 けれど、町を巡った時とは決定的に異なる感覚がある。ここに開放感はなく、大気はとてもよどみ、沈んでいる。
「さて、奴隷と一口に申しましても――。荷を運ぶ愚鈍な獣がいるように、高貴な娘の膝上にて愛でられる優美な獣もおりましょう。夜の神が生みしものは、時に至高の美を誇る。この世には、磨いて輝く珠もあれば、手をかけずとも光輝を見せる珠も」
 道化の化粧をした競り人の大仰な口上に、艶を含んだ笑い声が幾つも響いた。アヴラルは身を覆う長布の中で、必死に目を瞑っていた。
「愛でましょうか、引き裂きましょうか」
 興を引くための稚気を含んだ台詞に、誰かが失笑したようだった。これも恐らく、一つの駆け引きなのだろう。わざと客を焦らし、競争心を煽る。
「まずお目にかけますは、金の花。続いて青、赤の花と――」
 アヴラルははっとした。
「典雅という名の美貌、ご覧あれ」
 目を見開いた瞬間、身を隠していた長布が音を立てて奪われた。
 しん、と場が静まり返った。
 針のように突き刺さる無数の視線。見えぬ壁に縫い付けられたかのように、身体の動きが一切封じられてしまう。
 吐息一つ落とすのでさえ許しがたいような、ひどく緊迫した静寂が生まれている。
 なんという視線の数だろう。アヴラルは微かに唇を震わせた。まるで穴蔵のように天井が低い場所だが、広さだけは十分にあり、ぎっしりと人間が押し込められている。客席は不均等な高さの石椅子で、異様な造りとなっていた。そこに腰掛ける誰もが優雅な衣装をまとって仮面をつけており、町中で見かけたような見窄らしい身なりの者はいなかった。
 自分は今、それぞれの客席よりも低い壇の上にいるのだと気づいた。壇の両側には、大振りの花が生けられた瓶と燭台が設置されていて、薄暗さの中にどこか淫猥な、華やいだ印象を与えていた。
 あぁそうか、これは一種の競りなのだ、とアヴラルは頭の片隅で理解した。市で見た、商人と客の痛快なやりとりの光景が脳裏に蘇る。値切る客、考え込む顔を見せる商売人。
 そして今、自分が物品のように、見せ物となっている。
「いかがでございますか、よい品ですよ」
 漆黒の衣装を纏った競り人の、明朗な声が静寂の中に落ち、それで緊張感がほどけていった。ざわざわと、感嘆のような声が人々の間に広がった。
「美貌の通り、未だ手垢に塗れていない奴隷です」
 おどけた説明に、好意的な笑いが漏れた。
「さあ! お手を!」
 鋭く、皆の興を打つような、勢いを持った呼びかけに、誰かが手を挙げた。
「三万ラレィ」
 アヴラルは身をすくめた。買われる、という恐怖にだ。
 五万ラレィ、とすぐに別の者の手が挙がる。客が交渉のために示した指を見て、競り人が値の状態を早口に告げていく。五万五千ラレィ、六万ラレィ、六万二千ラレィ、と次々に値が競り上がる。急速に膨れゆく活気が、アヴラルを蒼白にさせた。
「ただいま六万二千ラレィです、よろしいですか!」
 競り人が、鐘を置いた小卓の上に両手をつき、皆の方に身を乗り出して、声を張り上げた。市の熱気とはまた異なる、異様な空気がこの場を支配していた。
「美を落とす値、この程度と?」
 競り人の不満げな催促に突き動かされて客は己の自尊心を覗き込み、再び交渉が始まった。
 アヴラルは無意識の中で首を振った。嫌だ、こんな風に、落とされるなんて。
 叫び声が喉の奥に張り付いていて、息苦しい。助けて、シャル。
 涙が次第に滲んできて、皆の熱狂する姿が醜く歪み始めた。ゆらゆらと、まるで亡霊のようだった。
 八万ラレィまで値がつり上がった時、あちこちから感嘆の吐息が漏れた。どうやら、値が基準を超え始めたらしかった。
「八万、八万ラレィ。かまいませんか!」
 どうしよう、怖い!
 かたかたと身体が震える。
「十万ラレィ」
 どよめきが広がった。最前列にいた丸い身体の男が誇らしげに片手を見せ、仮面の奥から粘ついた視線を寄越してきた。
「十万ラレィが出ました、かまいませんか」
 予想以上に値が上がると踏んだのか、競り人が熱心に皆へ訴えかける。十万ラレィとは一体どれだけの値打ちとなるのか、アヴラルは理解できなかった。本当に、この男に競り落とされてしまうのか。吐き気がこみ上げ、意識を失ってしまいそうになるほどの拒絶を覚える。
 誰にも従いたくなどない。どれほど傲慢な願いであっても、ただ一人シャルにだけ、全てを許したいのだ。
 力を解き放ってしまいたい――ただの、人間に、屈服など!
 シャルを何度も胸中で呼んだ。
「次の値はありませんね? それでは――」
 引き際と感じたのか、競り人が皆を見回し、鐘を鳴らした。それが終了の合図だった。ほうっと客の間から、様々な意思を隠した吐息が漏れた。
 競り人が硬直しているアヴラルの方に顔を寄せ、主人となる男に向かって愛嬌を振りまけと囁いた。
 できるはずがなかった。アヴラルが慕うのはシャルだけなのだから。彼女が今ここで命じるのならば、従うだろう。けれども、誰かの強制によって隷属するなどとは、それだけは認められなかった。
 感情なんて、なければよかった。
 一粒の涙がほろりと落ちた時――。
「――二十万ラレィ」
 よく通る、凛とした声が響いた。
 
●●●●●
 
 場がざわめいた。
 二十万ラレィ。男が告げた値の倍だった。
 アヴラルはその声に、呼吸を止めた。
 低く作られた声。
 けれども、決して間違うはずのない――
 まさか!
 愕然と視線を上げる。人々も一体どこから声が上がったのかと視線を巡らせていたが、その人物を特定できずにいるようだった。
「私が落としたのだ。競りは終了している!」
 十万ラレィと告げた男が即座に憤慨した声を上げ、硬直していた競り人を睨んだ。我に返った競り人は戸惑いを見せながら、どこか曖昧に頷いた。確かに終了を告げる鐘を鳴らしたが、その後に提示された値は倍の額である。相場を超えた値に、欲が出たのだろう。
「さて、残念ですが、既に値は決まり――」
「三十万ラレィ」
 未練をたっぷりと残しながらも競売の終わりを説明する競り人の声を傲然と遮って、更に高い値を提示する声が響いた。
 ざわめきが一層大きくなる。
「今更、何を!」
「四十万ラレィ」
 狼狽をまじえた丸い体躯の男の怒号をかき消すように、更なる値がするりと告げられた。
「……これはこれは。美の値打ちを知る高貴な方がお越し下さったようです」
 こうなると、競りを再開せずにはいられなくなったのだろう。客が熱気に翻弄されるように、競り人もまた高値に酔わされ、理性を乱す。競り人が手をこすりながら満面に笑みを浮かべ、競りの続行を匂わせた。絶句する男を無視し、再度、ただいま四十万ラレィ、と皆に呼びかける。
 アヴラルは目を凝らして声の持ち主を捜した。絶望とは違った何かが、胸に満ちていく。
 熱気も、感嘆も、全てが遠退く。
 この声。
 だって、この声は。
「五十万ラレィ」と対抗する新たな声が上がった。すると間を置かず、「六十万ラレィ」と翻す声が響く。
 あぁ!
 胸がおかしくなる。壊れそう、どうしようもなく、壊れそう!
 座っていられなくなり、アヴラルは台座の上で身を起こした。鎖の長さが足りぬため、完全に立ち上がることはできず、膝をつくような体勢になる。しゃらりとこすれる鎖の音。アヴラルは瞬きも忘れて、皆の中から、終了したはずの競りをすぐさま続行させた声の持ち主を探す。
 どうしよう。
 どうしよう。
「では、百万ラレィ」
 巨大な渦のようなざわめき。
 けれども再び、値が覆るのだ。
「――二百万ラレィ」
 夜を彩る、最大の高値。
 
 シャルだ!



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