砂の夜[8]
抜き出て容貌が秀麗とはいっても、たかが奴隷一人の競りに二百万ラレィという高値が提示されるのは、そう滅多にあることではないだろう。
その値、稀なる宝玉に払うならばともかく、消耗品とされる奴隷相手では富を誇る豪族であれ躊躇するはずだった。
声なき驚嘆の気配が満ち、市の場が不自然に静まり返った。競り人が一瞬言葉を失い、忙しなく視線をさまよわせて、最高額を口にした持ち主の姿を探している。アヴラルもまた台座の、羽根と炎を象ったふちに両手をつき、必死の思いで、かの人の姿を求めた。
「さてこれは……心地の良い一声を聞きましたが」
競り人はすぐに愛想で固めた笑みを作り、先程までの高揚した様子を消して慎重な声を出した。予想を大きく超えた高値に対して、どうやら満足感よりも疑念を強く抱いたらしかった。この場に満ちる密やかな雰囲気を読めば、規定を遵守した正規の市ではないことくらい容易に知れる。不法売買を取り締まる官が潜入し客の中に紛れている可能性を危惧したのかもしれなかった。
「二百万ラレィの方、どうぞこちらへ」
石のごとく固まっていた人々に動きが見えた。壇上から左側、席に座らず立ち見していた人々が緩慢な動作で場を譲り、さらりと砂を払ったように細く道が作られた。
その道に姿を見せ、こちらへゆっくりと足を踏み出す人。
あぁ、もう、本当に、なんて……!
大声で泣き叫びたくなる。乱暴になるくらい一心に駆け寄って、そしてしがみつきたい。
かぁっと頬が熱くなり、胸の深い場所で鮮やかな火が生まれたような錯覚を抱く。身体が痺れて、意識さえ燃え落ちてしまいそうになる。
人々の注目に頓着せず凛然と奇麗に背筋を伸ばし、長い衣の裾をさばいてその人は、壇に上がった。皆と同様、仮面で顔の一部分を隠している。闇に溶け込む沈んだ色の衣装は優雅だったが男物のように見えた。衣服の上に緩く垂らした鮮烈な赤の長布が目映い。いつも腰にさしていた剣は今、所持していないようだった。武器の持ち込みを禁じられたのだろうと思った。
男装した、異国の貴人めいた姿。艶やかな漆黒の長い髪は、染めたのではなく、鬘であろう。
シャルだ。変装していても、分からないはずがなかった。この空気。聖なる水のごとく澄んだ気配を持つ人だから。
頭がぐらぐらとした。夢ではないのか、幻ではないのかと、歓喜よりもまず先に、大きな恐れを覚える。
この人はもう、何だろうか。一陣の風のように、アヴラルの中に蔓延っていた失意や悲嘆を吹き飛ばす。ただ、全てが、なんて心地のいい人。甘くも稚くもないけれど、鮮烈な勢いで心を盗んでくれる唯一にして最高の人なのだ。
「良い値です。しかし、競りの法として、この場で言い値を渡していただくのが条件。お手元におありでしょうか?」
相手の懐を探るような、不躾な競り人の問いに、シャルはどこかゆったりとした動作で自分の黒い髪に指を絡め、陶然と口元を綻ばせた。その焦らすような、高慢にも取れる仕草は、本当の貴人めいて見えた。
あぁ奇麗。シャルはとても、奇麗。
一番、一番、見晴らしのいい場所にある高貴な椅子に座らせてあげたい。聖水で清めたような大気の中で微睡ませてあげたいのだ。
「無論……」
囁くようにシャルが答えた。ふと気がつけば、場の空気に流されることなく端整な様子を貫く彼女の側に、連れらしき男がいつの間にか立っていた。シャルの知り合いなのだろうか、付き従うような雰囲気を持っているが、仮面の奥の目にはどこか困惑した色が浮かんでいた。
シャルがこちらへ顔を向けたので、アヴラルは台座の上で中腰になったまま、条件反射のごとくびくっと固まった。
僅かに芝居がかった丁寧な仕草でこちらへ片腕を伸ばしたシャルが、手の甲でゆるりとアヴラルの顎に触れる。鼓動がひどく高鳴った瞬間、顔を少し覗き込まれた。仮面の奥の目が、笑みの形に細くなっていた。
「二百万ラレィ。この美貌ならば、惜しくはあるまい?」
雰囲気にも態度にも恰好にも驚いてはいたが、その言葉にも本気で仰天した。
一瞬、意識がぼろぼろと崩壊しそうになり、シャルの名を叫びそうになったが、その寸前でなんとか思いとどまる。他人の振りをせねばならない事情があるのだ、きっと。
とはいえ、理性では理解できても実際には難しい。頭も、心の中も、容赦なく砂嵐に覆われているような状態で、なぜか頬がじわじわと上気するし、こちらの願望を目一杯詰め込んだ幻影にすぎないのではないかとまだ疑う気持ちもあったし、芝居とはいえ普段と異なるシャルの言動に胸が乱れて落ち着かないしで、アヴラルは極度の混乱に陥って泣き出しそうになり、最終的に苦悶の表情を浮かべた。
様々な思いが交錯するその複雑な表情は、どうも端からすると屈辱や絶望を色濃く反映したように見えたらしく、シャルが唇の端を小さく歪め、意地悪く微笑した。アヴラルはつい目を逸らしたい衝動を覚えたが、他の景色を映すのは勿体なくてやはり見上げ続けた。
「穢れなき者を服従させるのが愉楽というもの」
シャルの台詞に、アヴラルの時間がとまった。
愉楽?
シャル!? とアヴラルは再度仰天し、絶叫しそうになった。
「私にとっては価値がある。どれほどの値であろうとも、手に入れよう」
今度は別の意味で愕然とした。
その言葉は。
本当に?
アヴラルは咄嗟に俯き、血が滲むくらい強く唇を噛み締めた。我慢しないと、激情が堰を切り号泣してしまうのではないかと思ったのだ。
「お前を落とそう。不服はないだろう?――私が可愛がるのだから」
威丈高に嘯くシャルの指が、感情の暴走を恐れて俯くアヴラルの髪を撫でた。アヴラルはただ必死に頷き、その指に催促されておずおずと顔を上げた。
人々の目には、皮肉ばかりを言う新たな主人に屈服したように映ったかもしれなかった。
「さようですか。無礼をお許しください。なにぶん高値の取引であるため、しばし場を変えたく思いますが、よろしいですか」
競り人が慇懃無礼な口調で謝罪したのに対し、シャルは無関心ともとれる態度で鷹揚に頷いた。その間、崩壊しそうなほど狼狽しているアヴラルの髪を、慰みのように弄んでいる。最早どういった反応を返していいのか、想像もできない状態だった。
「ではこちらへ」
シャルは少し首を傾げ、ちらりとアヴラルの方に視線を落とした。
「折角落とした者だ。連れていっても?」
状況を見守る皆の視線を意識したのか、多少の間のあと競り人が笑顔で頷き、アヴラルにつけられた首輪から鎖を外した。どうせならば首輪も外してほしいのだが、これも一つの装飾であるらしかった。
「う」
台座から降ろされ、シャルのあとに続くよう、競り人に背を押された。
アヴラルは左右に情けなくよろめきつつも、凛とした背を見せるシャルのあとを慌てて追った。
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案内された先は、以前アヴラルが他の子供達と共に閉じ込められた部屋のように殺風景な場所だった。
華やかな調度品の類いは殆ど存在せず、ただ簡素な卓と椅子のみが中央に置かれており、その他に、花の形を模倣した燭台がいくつか乗せられているだけだ。窓はなく燭台の明かりが光源の全てで、どんな会話も密談に変えてしまいそうな仄暗い雰囲気を醸し出している。物が存在しないため空虚に感じる部分もあるが、実際に部屋自体、必要以上の広さを持っているようだ。
「しばしお待ちを」
競り人は、シャル達を部屋へ導いたあと、成約時に必要な印や証書などを用意すると、もっともらしい台詞を言い残して素早く退室した。
シャルに付き従っていた男が固く閉じられた扉の方へ一度視線を投げ、小さく溜息を落としたあと、仮面を外した。まだ若い男のようだった。
「……全く」
と、男は疲れたように呟いた。
「疑われたか?」
シャルが気負いのない声で言うと、男が顔を向け、実に嫌そうな表情で舌打ちをした。
「当たり前だ。あれほど目立つ行為は控えろと注意しただろうに。二百万ラレィだと? そんな大金、持っているのか?」
「まさか」
「おい! どうするんだよ。あぁ全くとんでもねえよ、シャル」
男が奇麗に整えていた髪をぐしゃぐしゃとかき回し、罵倒か悲嘆か判断できない意味不明の声を上げてしばしうろうろとした。よく分からないが、シャルはこの男性に対して旧知の間柄のように気安い態度を見せている。信頼できる者なのだろうか?
「大体なあ、お前、この子はなんだ!」
悶絶する男の様子をのほほんと静観していたシャルがようやくアヴラルの方へ向き直り、じっと見下ろした。
「こりゃ人間の子か?」
「さあね」
がくりと項垂れる男に一度笑いかけたあと、シャルがこちらへ腕を伸ばしてきた。それまで放心していたアヴラルだったが、咄嗟にしがみつこうとして――身体を持ち上げられた。
シャル、と言おうとした瞬間、ぎゅうっと抱きしめられ、頭の中が見事、真っ白になった。
「迎えが遅くなった」
あ。
真っ白な意識に、ただシャルの声だけが命の鼓動をもって満ちる。
「悪かった」
「……!」
どくどくと一気に血の巡りが速くなった。
もう駄目、すごく駄目なのだ。
とても我慢できない。
ぐっと息をのんだ時、一気に涙がぼろぼろと落ちた。
「う、うぅっ」
「悪かったよ」
嘘じゃないんだ。シャル、迎えにきてくれた。
とんとんと背中を叩いてあやしてくれる手が温かく、躊躇いも忘れ、シャルの首に腕を回して懸命にすがりついた。
「うー!」
「だから、悪かったと」
違う、腹を立てているんじゃなくて!
嗚咽がとまらない。だってずっと会いたかった。死ぬほど真剣に、それだけを思って。
嬉しい、嬉しい!
喜びが膨れ上がり、破裂するのではないかと本気で思ってしまった。ユージュの言葉、人買いの言葉、嫌なことがたくさんあった。本当に見捨てられたのかと、目眩がするほど落胆した。けれど、もう、そういう恐ろしかった時間は歓喜の彼方へと遠く去り、掻き消えた。
きっとここに至るまで自分を捜してくれていたのだ。ちゃんと迎えにきてくれて、抱き上げてくれる。どれほどの値でも手に入れてくれると。
至上の幸せかもしれない。もう死んだっていい気がする。シャルが誰より大好き。大好きという言葉を超えて、もっと好き。どうしたら思いをきちんと表せるだろう?
心の中の、最も奇麗な水が溢れる泉に、シャルへの「好き」が存在する。
嬉しくて気が狂いそうになるということがあるのだ。
「うぅ、うー、うー、ふぐぐ、ふぐ」
どういう泣き方をしているのか分からなかったが、みっともないと思う気持ちさえ涙に濡れている。
「だからさ、すまなかったと……」
身体が震えるくらい次々に涙がこぼれ、自分でも制御できなかった。
ふぅと溜息をつく気配があって、盛大に泣きつつも顔を上げた時、苦笑するシャルの瞳とぶつかった。鮮やかな紫色。細い指で仮面を外す。
白い髪も奇麗だったけれど、黒い髪もよく似合っているなどと、喉が痛むくらい泣き続けながらも馬鹿なことを思った時だった。
「泣き止め、子犬」
笑い含みに、子犬、と言われたが、絶句する間もなかった。額に垂らしていた宝玉の飾りがシャルの指先でよけられる。その直後、とん、と額に柔らかく、唇を押し当てられた。本物ではないけれど、頬に触れた黒い髪はなんだかいい匂いがした。
「!?」
絶句を通り越して、意識がぶれた。
はわっと目を見開いたが、まともな思考は残っていなかった。
今、何が、何、な、と壊れた言葉だけが踊っている。
「……シャル、その子は一体何だ?」
呆れたような男の声も、理解できぬまま左の耳から右へと突き抜けてしまう。
「あぁ、これか?」
「これって、お前な」
楽しげに笑うシャルの顔まで霞んで。
「――私の、まあ、伴侶みたいなものかな」
は。
伴侶!?
あぐあぐとアヴラルは口を動かした。真紅の塗料をかぶったかのごとく、頭に血がのぼり、頬が燃えた。
「伴侶って、あのな……。知らなかった、お前、大層な美貌主義か? 大体、そんな年下の子供を――と言うかな、シャル、その子、破裂しそうな顔だぞ」
男の呆気に取られた表情が目に映ったが、アヴラルはまだ混乱状態が続いていた。
伴侶。
伴。
言葉を繰り返し、更に思考が微塵切りされた。
「……いや、そこまで真に受けて、赤面するか?」
シャルが顔を引きつらせつつ呟いた。
「そもそもお前、先程私が近づいたら、嫌な顔をしたな? どういう了見だったんだ、あれは。随分生意気な反応を見せてくれるじゃないの」
「あ、あわわふわわ」
「そういう態度を取っていいと思った? いい度胸だね」
「う、あ」
いじめるなって、という男の声が聞こえた気がした。
「この恰好も、何だ? 趣味なの?」
「ち、違っ」
「目が痛いな。どれだけ飾り立ててるんだろうね。凄いものだ。……売ればこの宝石だけでも、良い値がつきそうだな」
「シャル、発想が悪党だぞ」
と、男がどこか遠い目をして小声で言った。
アヴラルは怒濤の攻撃を受けた気分になり、言葉が出なかった。それに、こういう薄着をしているのもひどく恥ずかしくなってきた。
「こりゃあ確かに、どこかの変態爺が目の色を変えて求めそうな恰好だね」
シャルの目が、錯覚でなければとても意地の悪い色を浮かべている気がする。
「路銀に不足したら、売ってみるか」
「!」
改めて芽生えた羞恥心に苦悶していたアヴラルは、半ば本気の感情がこもっているシャルの言葉にぎょっとし、凍りついた。
そんな。
「……冗談だって。泣くな」
「お前達な、じゃれてないで、どうやってここから逃げ出すか、考えてくれ」
男が一度アヴラルの方へ憐憫の視線を向けたあと、苦々しい顔を見せて言った。少し高飛車な微笑を浮かべていたシャルも、表情を改めて鋭い眼差しを扉へ投げた。
「鍵をかけられたぜ」
「そう」
「残念だが、ただの客とは思われていないだろうな」
「まあねえ」
「呑気に答えるなよ。どうするつもりだ。いっておくが簡単には抜け出せん。客よりも多く、番兵が潜伏してやがる。おまけにこっちは得物なし。剣も何もなく、足手まといになる子供を連れていかねばならない状況だ」
苛ついたような男の声に、シャルは皮肉な顔を見せた。
「どうもせぬ」
「何?」
骨なし状態のアヴラルを抱え直し、シャルは思慮深い目をした。
「問題はない。客であればいいのだ」
「だから、支払える金がないだろ!」
シャル?
「確かに金はないね。けれども、二百万ラレィに相当するものは多分持っている」