砂の夜[10]
「何?」
意味が分からなかったらしく、キカが怪訝な顔で聞き返した。
璃核の晶。アヴラルは必死に曖昧な知識の中を探った。魔としての知識の奥底に、その言葉はひっそりと眠っていた。
それは、確か。
「……さて、私はどう答えましょうか」
不安定な声音ではなかったが、返答を濁す総主の目に戸惑いが映っている。
「二百万ラレィの価値があると言ってくれたのは、あなたでしょう」
シャルは何でもないことのように、総主の言質を取った。
「――駄目ですっ!」
叫んだのはアヴラルだ。
三人の視線が一斉にこちらを向いたが、余裕のないアヴラルは青ざめながら懸命に首を振った。
「駄目です、渡せません!」
「こら、お前」
呆れ顔のシャルにぽんと軽く後頭部を叩かれたが、アヴラルは耐えた。
璃核の晶を取引に持ち出すなど、とんでもない。
別名は、呪魄。要するに呪術師の、呪力の原石だ。目、心臓、血の三石とはまた異なる。シャルは、己の呪力を完全に抛つつもりなのだ。
その行為は、肉体から魂魄を引きずり出すのと変わらない。呪術師にとって、呪力の塊は第二の命ともいうべき重要なものである。容易く売買できる代物ではない。なぜなら、呪力は血に溶けているものであり、命に絡み付いているものだ。それを一つの結晶としてえぐり出すなど、正気の沙汰ではなかった。無理矢理に肉体から取り出せば、自我が壊れる。狂う可能性が高く、死に至る危険もまた大きい。そもそも、本来は魂魄同様、取り出せないものだった。
そして、もう二度と呪術を操れなくなる。
「お前の意見は聞いていない」
つれないシャルの言葉に、泣きたくなる。
「ねえシャル様。私はあなたを殺したいとは考えていないのですよ。呪魄を渡すならば、あなたのままで契約していただくのとそう変わりはないでしょうに」
「私は自由が好きなので」
違う。それはきっと本音ではない。シャルがここで他者と契約をかわした場合、アヴラルもまた束縛されることになる。モルハイは各地から旅人が訪れる賑やかな町であるぶん人目が多く、治安面では決して良とは言えぬため問題事が頻繁に発生する。人の世界に未だ不慣れなアヴラルの目から見ても、この町は腰を落ち着けて生活するには不向きであると判断できるのだ。何より、こうして複数の者に目をつけられてしまった以上、今後静かな暮らしを続けられるとは到底思えなかった。更に言えば、アヴラルの身体はまだ発育途中にあるため、短期間で大きく体型が変わるだろう。その急激な変化は人々にとって、異常と取られるに違いなかった。
「あなたにとっては悪い話ではない。璃核の晶は、飲み込める。僅かなりとも呪力を持つあなたは、十分器に適しているだろう。それに私はこう見えても、上位の呪術師だ。斗糸の呪魄が市に出回る機会など早々ないと言えるのでは? めずらかな宝玉に匹敵すると思うけれどね」
まるで悪徳商人のようににやりと意地の悪い笑みを浮かべてシャルは囁いた。
「こらこら、説明せんか。何だその、璃核とか呪魄ってのは」
キカの問いを、シャルは無視した。
「命です! 呪術の力を編み出す原石です。渡せば、シャルの精神がおかしくな」
言葉の途中で、むぐっとアヴラルは呻いた。舌打ちをしたシャルに口を塞がれたのだった。しかし、今アヴラルの味方となりシャルを思いとどまらせてくれそうなのは、キカ以外にいないのだ。
「おい待て。お前、やはりろくでもない愚策を隠していやがったな」
キカは剣呑な眼差しをシャルに注いだ。
「あー、うるさい」
シャルが小声で呟いた。
「何?」
「あのねえ、この子がやけに深刻な顔をしているがね、取り出せる自信があるから提案している。前に一度、この呪力が煩わしくなって、捨てようと考えたことがある。璃核の晶の精製法、取り出し方は知っている。そう大それたことじゃない」
アヴラルは口を塞ぐシャルの手を思い切って外し、急いで見上げた。
「身体を損なう危険な行為です。禁忌とされているはずです!」
「お前はどうして余計な知識ばかり持っているんだ」
でも、シャルにもしものことがあったら。
「私は死なないだろうし、狂いもしないだろう。これは自信のみで言っていることじゃない」
はっとした。
そうか、アヴラルとの誓約だ。
魔である自分との誓約が、シャルの精神を守るのだと。
けれども、問題の原因もまた、アヴラルなのだ。
ぐらりと意識が揺れた。いや、視界もまた、何重にも揺れる。
「駄目……」
「アヴラル?」
「やだ! 嫌です!」
シャルの目が途端に険しくなった。
「黙りな」
「だ、黙りません」
驚いたようにシャルが瞬いた。即座の反論は予想外であったらしかった。
「そんなの、絶対、駄目です」
「だからお前の意見は」
「認めません」
反抗的な態度であるとか生意気な発言だったと後悔する気持ちは吹き飛んでいた。怒りのような、燃え立つ拒絶が胸の中で強くなり、アヴラルは無意識に、シャルを睨み上げた。
「何だって? 誰に向かって命令を?」
明確に苛立ちを浮かべるシャルの視線を、アヴラルは受け止めた。引いてはいけない、ここで狼狽すれば、負ける。
シャルの言葉ならいかなるものにも従おうと思う。だがそれは、中心に彼女の安全があってこそ成立する話なのだ。
ゆえにアヴラルは踏み止まり、抵抗できた。
自分の安全を保障する時には躊躇う力、だがシャルを守るためであれば、道理も警戒も弾け飛ぶ。
「私に楯突く?」
脅迫めいたシャルの低い言葉に、一瞬揺さぶられそうになったが、アヴラルは身の内で蠢く激しい魔力に意思を預け、傲然と――視線をはね返す。
「アヴラル」
「それは――認めないんです」
シャルが何を言われたのか理解できないという顔をした。思わぬ事態に、言葉を失っているようにも見えた。
「……今、何て?」
「僕が許しません、シャル」
●●●●●
瞬きも忘れた様子で、シャルがじっとアヴラルを見下ろした。剣呑な気配は消え、当惑のような色が浮かぶ目で見つめてくる。
「呪魄は諦めてください」
シャルから視線を外し、興味深そうに静観していた怜悧な眼差しの館主へ向き直る。
「子供の脅しに身をひくようであれば、商いなどこの町で」
苦笑を見せて拒否の言葉を言いかけた館主が、ふと口ごもり、肩を揺らした。
「何を」
館主の片目が探るように動いたあと、驚愕を映す。蒼白な顔。無意識のように後退り、喘ぐ。
「――おいで、イース」
心地のよい開放感と共に、眠らせていた魔の力を動かし、アヴラルは微かな声で従属させた砂漠の王の支配者たる蝶を召喚した。
「アヴラル!」
我に返ったシャルの鋭い声が響くと同時に、室内の空気が刹那、大きく歪んだ。明確な言葉として告げてはいない命令、故意に場を揺るがせ威圧せよというアヴラルの思念をイースは正しく読み取り、その通りに配下の美麗な蝶達を引き連れて唐突に出現した。前の時よりも、イースを楽に呼び出せているという事実に、アヴラルは気づいた。
ざわりと揺らめき、銀の羽根を翻して、無数の蝶達が室内に溢れる。充満する魔の気配。アヴラルの肩にふわりと、唯一紫の模様を持つイースがとまる。
「シャルは渡しません」
緊張で、鼓動が速くなっている。しかし、魔の部分が、高い場所から、瑣末にすぎぬ人間を脅かすことに歓喜し、嘲笑っている。愉楽と恐怖、それは人と魔の性を持つ身体の中で矛盾のまま存在する。
「まさか、お前は」
館主が初めて怯えを見せた。彼の目に、自分の力はどのように映っているのか。人が宿す呪力の色とは異なっていることだろう。
「やめなさい!」
シャルは血相を変えて叫んだ。蝶達は、アヴラルの命を阻む者全てを威圧する。シャルも例外ではない。ただ、決して傷つけてはならないと強く思念を投げる。彼女の行動をとめるために肩や腕に、蝶達がとまった。動けぬと理解したシャルの身体が一度震えたように見えた。
「身をひいてください」
アヴラルは静かに告げた。鮮やかな銀の輝きを見せる蝶達を館主は眺め回したあと、再びアヴラルに視線を戻した。
「……砂漠の王が、なぜ」
掠れた声で呟いたのはキカだった。彼の顔もまた蒼白だった。
「忠告します。シャルに関わらないでください」
「お前、人ではなく」
館主はその先を口にしなかった。
「アヴラル、やめなさい」
シャルが振り絞るように言った。
「……やめません」
だって、こうでもしないと、シャルが犠牲になる。
「シャル、どういう理由であれ、あなたの身に危険が及ぶ状況は認めません」
震えずに言葉を紡ぐことができた自分に、少し驚いた。
「私の言葉をきけないの。今すぐ、砂漠の王を下がらせなさい!」
激しい声音に、アヴラルは一度唇を噛み締めた。シャルに叱責されるのは辛い。
「駄目です」
「アヴラルっ!」
叩き付けるような声にも、アヴラルは何とか耐えた。
「もう十分だ。砂漠の王達を戻しなさい」
アヴラルは何度も首を横に振った。しかし、シャルに繰り返し怒鳴られると意気消沈してしまい、魔の力が弱くなってくる。
「下がらせないと――二度とお前を側に置かない」
「!!」
アヴラルは思い切り動揺した。そんな。
「置いてくよ」
「う……」
きっぱりとした宣告に、負けた。魔の力が一気に拡散し、集中力が途切れる。
アヴラルが項垂れると同時に、砂漠の王達はふっと姿を消した。魔の余韻だけが室内に満ちた。
先程までの驕慢とさえ呼べるような開放感はあっさり霧散し、シャルにまた置き去りにされるのだろうかという濃厚な不安が胸に芽生える。引き下がるわけにはいかないと強く決意しイースを召喚したのに、情けないほどの素早さで意志を挫いた自分に虚しさを抱いたが、やはり人としての感情を完全には眠らせていないためにシャルの一言は何より効果がある。
しかし、とりあえずは目的を果たせた、とアヴラルは内心で呟いた。
魔の力を見せつけて威圧する、それが目的だったのだ。不用意に手を出すべき相手ではないと館主に思わせることができれば上出来なのだった。
おずおずと視線を上げ、シャルの様子を窺う。勝手な真似をしたという自覚は十分にあるため、シャルが次に何を言うか最早恐怖であった。怒鳴られるだけですむだろうか。まずは謝罪して少しでも斟酌してもらえるよう誠意を見せようかと、混乱し始めた頭の中で必死に考えを巡らせる。
「……人では、ないのですね?」
館主が我に返り、気丈な態度でシャルとアヴラルを交互に見た。
シャルは今にも特大の文句を投げつけそうな怖い顔をしていたが、館主の問い掛けに、諦めた表情を浮かべて嘆息した。しかし、まだ眉間には深い皺が寄っている。
そして、渋々という様子で口を開いたその時――。
「驚いたなあ」
という、何とも気の抜けた見知らぬ女性の声が割って入ったのだ。
アヴラル達は一斉にぎょっとし、振り向いた。
部屋の入り口で、優雅ななりをした女性が目を見開きながらアヴラル達を眺めていたのだった。