砂の夜[11]


 わずかな沈黙のあと、闖入者は呑気に頭をかきつつ皆の驚きも気にしない様子で室内に足を踏み入れた。小柄な彼女の背後に、どこか疲れた様子の従者らしき女性が立っているのに気づく。
 この場に広がる緊迫感をものともせずのんびりした様子で短い髪を無造作にかきあげている女性の方が、かすかに疲労感を漂わせている人よりも一回りほど年上だろうか。容貌に関して言えば、誰もが目を見張るほどのあきらかな美しさを持っているわけではなかった。けれども澄んだ琥珀の瞳にはちょっと見過ごせないような生の輝きが溢れており、ひどく魅力的に思わせる。ただし、今現在その瞳を彩っているのはアヴラルたちに対する強い好奇心のようだった。
 従者らしき若い女性が一度、愉快そうな顔をしている主人の背に複雑な視線を向けたが、すぐにアヴラルへ目を転じ、警戒の表情を浮かべた。アヴラルは急に凝視されたため、思わずびくついてしまった。
「いやあ、驚いた。向こうでも急に大気が歪んでね、客人に紛れていた術師たちが騒ぎ出したので、適当に走り回ってみたんだがね」
 などと琥珀の瞳の女性がどこか男性的なさばさばした口調で説明し始めたが、勘だけでこの部屋に辿り着いたとは思えなかった。なぜなら、アヴラルがイースを召喚したのはごく短い時間なのだ。魔の気配を正しく感知し、一直線にこちらへ駆け寄ったのでなければ、こうも早くには姿を現せぬはずだった。
「今のは砂漠の王だね?」
 好奇心をたたえた女性の視線がアヴラルを貫いた。名さえ知らぬその女性に話を振られ、びくっとアヴラルが肩を揺らした時、突然身体が宙に浮いた。背後に立っていたシャルに身を持ち上げられたのだ。
「話をしたいところだが、兵士たちが来たな」
 と女性は邪気のない様子で通路の方へ顔を向けた。扉は開けっ放しになっていて、複数の者が通路の奥で騒いでいる気配が感じられた。
 いちはやく我に返ったらしいシャルが大きく舌打ちし、風の力を操って唐突に扉へと駆け出した。騒動となるだろう原因を作ったのはアヴラルだが、最早こうなれば市も二百万ラレィも関係なく、ひたすら逃亡を図る以外に方法はない。
 二人の女性の脇を風の速度を借りて通り抜けたあと、シャルはアヴラルを荷物のように抱えつつも素早く通路を確認した。驚いたことに、屈強そうな男が通路に三人ほど昏倒していた。室内に入ってきた女性二人が気絶させたのだろうか、という考えは、シャルが通路の曲がり角に姿を見せた兵士を目にとめたあと反対側へと勢いよく駆けたため、一瞬で流れた。
「――結局脱走劇になったじゃねえか」
 不意にぶっきらぼうな、しかしひとかけらの楽しさをも含んだ声が聞こえ、アヴラルは顔を上げた。シャルのあとを追ってきたキカと視線がぶつかった。なぜか突然室内に乱入した二人の女性までも一緒についてきている。蛇足だが、アヴラルは後ろ向きのくたりとした体勢でシャルの肩に担ぎ上げられている状態だ。そういえば、シャルは風の力を借りていながらも、思ったより速度を上げていない。恐らくキカ達があとを追えるよう、配慮しているのだろう。
「くそう、これで私はお尋ね者になったじゃないか」
 シャルが小声で悪態をついたので、事の原因を作ってしまったという疾しさゆえにアヴラルは縮こまった。
「どちらへ向かえばいいんだ!」
 八つ当たり気味に叫んだシャルへ、あっけらかんとした声でキカが簡潔に返答した。「知らん」と。
「市の様相は毎度変わるんだ。こうも入り組んだ建物の中だとな」
 どうも、いずれにあるか分からぬ抜け道を探し回るより、正面から強行突破した方が結果的によいのではと思えてくる。
 波模様を描く太い円柱に支えられた石造りの建物の内観を見る限りでは、ここは誰かの屋敷として使われているのではなく、それなりの規模を持つ施設ではないかと推量できる。モルハイには不必要なほど多種多様な娯楽施設が存在するのだ。その中の一つではないだろうか。
「そちら側は、恐らく行き止まりになります。お逃げになるのでしたら、次の通路を右へ」
 冷静に口を挟んだのは、従者めいた雰囲気を持つ女性だった。
「おお、お前は役に立つねえ」
 と主人らしき女性が感心した様子で答えた。何とも呑気な会話だが、全てかなりの速度で走りつつ交わされた言葉だった。
 しかし、余裕を見せていられたのはここまでだった。どうやら騒ぎが広まり、市の競売が中断されて混乱が起きているらしい。館主がすぐに伝令を飛ばしたのか、通路で兵達と衝突する事態に度々出くわした。シャル達は殆ど止まらず、実に荒っぽい動作で逃走を阻もうとする兵達を倒した。
「乱闘、上等だね」
 先程までの気怠そうな様子とは打って変わり生き生きとした表情を浮かべたキカが、楽しげな呟きを落とした。
 
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 通路の幅は狭く、更には曲がり角も多く、極めつけに部屋数までも多いという、逃亡には実に不親切な造りであったため、容易に建物の外へ脱出するのはかなわなかった。まるで迷路のような構造だ。換気を目的として壁の一部が等間隔に切り取られているが、人が通り抜けられる大きさではなかった。ここでシャルが攻撃系の風を呼び壁を粉砕した場合、通路の狭さにより風圧の衝撃が自分達にも跳ね返る危険があるため、やはり地道に出口を探すしかない。
「こりゃあ大変だ」
 突進してきた兵士をなぎ倒したキカが顎から滴る汗を乱暴に拭い、苛ついたように呻いた。最初は目を輝かせて兵士の相手をしていたのだが、次第にその数が増え、幾度も足止めされるうちに辛抱できなくなったようだった。
「もう少しで、出口が見えると思いますが」
 従者の女性が肩で息をしながら励ますように言った。アヴラルは大人しくシャルの肩にしがみつきつつ、思案した。恐らく建物の中心部に競売場があり、その区画から外へ向かって円を描くように通路が幾重にも設けられているのではないかと思われる。ゆえに、ひどく広い建物であるかのような錯覚を抱いてしまうのだろう。まさしく迷路のような造りだ。厄介なことに一定の間隔で、兵士が通路に立っている。兵士の宿直室が一定間隔に置かれていると言えばいいか。
「この施設は昔、闘技場だったのでは。それを改築したのでしょう」
 女性の冷静な説明に、全員が顔をしかめたと思う。部屋数がいやに多いのは、試合に参加する剣士達にあてがう目的で作られたためなのだろう。
「とにかく、今は脱出だね。このままだと外警備の兵士までも押し掛けてくる。闇市は非合法ながらもモルハイの重要な財源だ。それをかき回したのだから、捕まればただではすむまい」
 琥珀色をした瞳を持つ女性の言葉に、益々空気が悪くなった。
「おい、シャル。よく分からんが、その子はけったいな真似ができるんだろう。砂漠の王を呼び出して、兵士どもを一息に蹴散らしたらどうだ」
「駄目だ」
「渋っている場合じゃないだろう」
「ではモルハイ中の兵士を皆殺しにしろと?」
 シャルは鋭く言い、再び駆け出した。恐らくシャルの脳裏には、イース達が裁きの魔を滅ぼした時の光景があるのだろう。いくら緊急事態とはいえ、館主の命令を受けてシャル達を捕えようとしているだけの兵士達に砂漠の王をけしかけることはできないに違いなかった。一人や二人程度であれば脅すだけの目的でイースを召喚し、怪我を負わせることなく追い払うのも可能だろうが、多数を相手にする場合、悠長にそのような情けはかけられない。必然的に、今ここで召喚すれば、アヴラル達は無事に脱出できるだろうが、兵士達の肉体を魔である砂漠の王達に食らわせることになる。
 全員言葉なく出口を探して走ったが、さすがに疲労が重くのしかかってきているようだった。どうすればいいのだろう。シャルの怒りや多数の犠牲を覚悟してでも、もう一度イースを召喚するべきか、アヴラルは苦悶した。
「――キカ様、シャル様!」
 アヴラルが悲壮な思いで決意した時、場違いな少女の声が背後から響いた。シャル達は驚きと共に足をとめ、振り返った。アヴラルも慌てて身をよじり、声のした方へと顔を向けた。
「……ラシュ?」
 キカが虚を衝かれた態度で呟いた。視線の先には、場違いな美しい少女が立っている。長い髪と露出の多い衣装が艶かしく、殺伐とした現状との落差にアヴラルはぎょっとした。
「お前、娼館にいた娘……」
 と、シャルが驚きを映した声で呟いたため、アヴラルは更に仰天した。娼館? それは何か、とめまぐるしく考えた時、シャルが僅かに動揺する気配を感じた。理解できないもやもやとした不安を覚え、アヴラルはじいっとラシュと呼ばれた少女を見つめた。――どこかで見たことのある顔だと思った。次の瞬間に、あの館主に雰囲気が似ていると気づく。
「こちらへ来てください。出口までご案内します!」
 少女はそう言って、こちらの返答を待たず、部屋の一つに飛び込んだ。咄嗟という動作で、シャル達があとを追った。
 足を踏み入れた部屋は小狭く、素泊まりの客が利用するような、最低限の調度品があるだけの簡素な造りだった。
「この娘は?」
 琥珀の瞳を持つ女性の問いに、キカが当惑の眼差しをラシュへ向けた。
 ラシュはぎこちなく寝台を移動させ、壁の一部に手をついた。何をするのかと思い、ラシュの様子をうかがった時、寝台の後ろに隠されていた壁の一部が重い音を立てて開かれた。大人が一人、身を屈めてようやく通り抜けられる程度の正方形の穴が空く。
「抜け道です」
「待て。あなたはなぜ私達を逃がそうと?」
 シャルの厳しい声に、ラシュは振り向き、長い髪を揺らしてか弱く首を振った。
「急いでください。兵士達が――」
「前にも思った。あなたの顔は、館主に似ていると」
 アヴラルが気づいたことをシャルも感じていたらしかった。いや、前にも、ということは、初めて顔を会わせたわけではないと――。
「……わ、私は」
 ラシュは息を呑み、身体を震わせたあと、毅然と顔を上げた。その大きな瞳に涙が浮かぶ。
「私は、確かに、あの人の妹です。でも、私は兄が恐ろしいのです」
 唇を震わせながら、ラシュは更に言葉を紡いだ。
「私はこれまで兄の言いなりでした。命じられるままに、お店に出て、身を売って」
 一度唇を噛み締めたあと、すぐにラシュは言った。
「でも、シャル様方は、お店で、ハルヒを助けてくださったでしょう? 私達のような者に、優しくしてくださったから!」
 必死な様子のラシュに、シャルはそれでも警戒が滲む目を向けた。
「しかし、なぜここに――」
「シャル」
 途中で遮ったのはキカだった。
「問答している余裕はない」
 複数の足音がこちらへ近づいてきている。
「行くしかないだろ」
 キカはそう言って、ラシュに視線を投げた。
 
●●●●●
 
 部屋から部屋へと抜け道が続いているのかと思ったが、そうではなかった。狭い穴が延々と続く。どうやら、部屋と部屋の境目に、この抜け穴が設けられたらしかった。
 高さも幅もないため、皆、身を屈めながら進むしかなかった。抜け穴の中には明かりがないため、ぬるい闇が詰まっており、ただ前進するだけであるのに緊張感を抱かされた。
「――シャル様、先程、なぜ私がここにいるのかと、疑問に思われましたね」
 闇の中、慎重に進む音に混じって、ラシュの小さな声が聞こえた。
「実は、ハルヒと共に来たのです」
「ハルヒと?」
 シャルの驚き声に、アヴラルは注意を傾けた。誰だろう。知らない名前、知らない人ばかり。その人達はシャルを知っている。
「はい。ハルヒに頼まれて……シャル様が市に現れるかもしれないからと」
「ハルヒは今、どこに」
「捕われました」
 シャルの沈黙が痛い。
「それはおかしいな。俺達はガラフィーに会った。あの呪術師からハルヒのことは聞いたぜ。奴隷の子の世話をしていたと。ハルヒは俺達が訊ねたあと、行方知れずになっている」
 キカの声に、先頭を歩いていたラシュは振り向いたようだった。闇の中では、気配に頼るしか判断の術がない。
「無理矢理手伝わされていたのです。ガラフィーに命令されて奴隷達の世話をした時、そこにシャル様の弟までも含まれていたと分かったそうです」
 アヴラルははっとした。奴隷の世話をした青年。あの燃えるような眼差しをした優麗な青年がハルヒなのだろうか。
「ラシュ、お前、ハルヒに会ったのか」
「はい。昨日のことでした。深夜にハルヒが人目を忍んで、私に会いにきたのです。――キカ様が娼館でハルヒに会われた時、ガラフィーの住居を訊ねただけで、シャル様の弟君については説明されなかったのでしょう? ハルヒが奴隷の世話をしたのはその後ですから、お会いになった時は、シャル様の弟君までが捕らわれているとは思わなかったそうです」
「それで?」
「私とハルヒは、以前からよく話をしておりました。互いに辛い境遇を慰めあっていたのです。そのため、今度もハルヒは私を頼りました。お世話になったシャル様に恩返しをしたいと。私は迷いました。兄を裏切ればどうなるか。それでも、ハルヒを見捨てられません。兄の私室に忍んで、この建物の抜け道を記した図を見ました。市が始まるまでに、ハルヒと共に、シャル様の弟君を救出しようとしたのですが……」
「ハルヒは捕まったと」
「はい。私は、一人だけ逃げてしまったんです。捕まるのが怖くて。けれど、もう遅いのだと気づきました。ハルヒが捕まったのなら、いずれ私が手引きしたのだと兄に気づかれます」
「なぜハルヒは直接私達に接触してこなかった?」
 沈黙していたシャルが口を開いた。
「シャル様方がどこにいらっしゃるのか、分からなかったのです。私の存在は盲点でした。兄に最も近く、最も憎んでいる者です。まさか兄は、私が裏切るなどとは想像もしなかったでしょう」
「盲点?」
 ふと声を上げたのは、それまで黙々とキカの後ろを進んでいた琥珀の瞳の女性だった。先頭にラシュ、次にシャル、アヴラル、キカという順で進んでいるため、彼女の声は遠かった。
「兄は無情の人です。モルハイの欲に溺れてしまった人。私は兄の冷酷さが恐ろしかった。今まで逆らえずにいました。でも――どこかで、これは間違っていると。何か一つだけでも、兄に反抗したいという思いがきっとあったのだと思います」
 それきり、ラシュは口を噤んだ。抜け道の闇に、重苦しい感情が満ちている。ラシュは実の兄を憎んでいると。身を売るという行為を強いられていたという。けれどもなぜ、あの若き館主は実妹のラシュに非道を押し付けたのか。
 共に奴隷として売られるために集められた子供の言葉が脳裏に蘇った。父さんにここへ連れてこられたと。親でさえも子を売る町。モルハイ。ここはそういう惨い町なのだ、とアヴラルは震えた。悲嘆がしみ込んだ砂の上を、人は歩く。
 あの子供達はどうなったのだろうと思う。
 そしてリタルは。
 子供達やリタルがこの町から救われる方法があるのだろうかと、息苦しい闇の中を歩みながら、アヴラルは何度も自問した。


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