砂の夜[13]
シャルたちは市の場から少し離れた場所に従寄を待たせているらしく、まずはそちらへ寄ることになった。てっきり徒歩でハルヒを探しにいくのかと思っていたのだが、そうではなかったようだ。
人気のない飾り門の下に繋いでいた従寄の元へ到着したあと、シャルは固い表情を崩さぬままアヴラルを先に乗せ、後ろに自らも騎乗した。身にまとわりついていた砂漠の王たちは、ここへくるまでに既に下がらせている。
「さて、どうするんだ?」
キカがさりげない口調で訊ねながら別の従寄に乗り、手綱を握る。
「すまないが、少し待ってもらえないだろうか。私の従者が今、こちらへ従寄を連れてくるので」
従寄を動かそうとするシャルの横に立った琥珀の瞳の女性が、飄々とした様子で話しかけてきた。そういえばいつの間にか、彼女に付き従っていた女性の姿が消えている。いや、それよりも、彼らは一体誰なのだろう。
「なぜ同行を?」
シャルが当然の質問を口にし、ぽりぽりと頭をかく女性に視線を投げた。その時アヴラルはシャルに寄りかかっていいものかひどく悩みつつ、従寄の背の上で緊張していた。すると、こちらの葛藤に気づいたのか、シャルが無言でアヴラルの腹部に片手を回し、寄りかかるようにと促した。思わずその腕に両手で触れてしまったアヴラルは、更に緊張を高めながらも大人しくシャルに背を預けた。けれど、傷一つない至福の時間とはいえなかった。ハルヒという優美な容貌の青年がシャルの中でどういう位置に立っているのか、気になって仕方がない。
「ううん、あなたには腹を立てられるかもしれないけれど、まあ、興味を持ったということで」
「それは腹が立ちますね」
取り繕いもせずあっさりと同意したシャルに、いち早く反応したのはキカだった。こらこら、と子供のいたずらを咎めるような困った表情を浮かべている。
「興味を持たない方がおかしいと思うぜ」
女性を庇うかのような発言をしたキカの視線が、シャルの心情を考えて喜びと苦悩の間をいったりきたりしているアヴラルを貫いた。突然自分に注目が集まったため、条件反射で恐れが芽生え、シャルの腕にきゅっとしがみついてしまう。
「そうかな。私たちに対して興味がわく前に、この人はキカと話があるんじゃないかと思ったんだけれどな」
故意に涼しい声を作ったらしいシャルの指摘に、キカが奇妙な唸り声を上げ、片手で顔を覆った。
「お前なぁ……」
「あれだけ全身で彼女たちを気にかけてますって顔をされれば、いやでも気がつく。どうやらあなた方は知り合いのようだね」
従寄の上でがくんと項垂れるキカに、女性が目尻に皺を刻み苦笑した。
「あなたの登場のお陰で助かったという部分もあるんでしょうね。キカだけでなく館主も随分あなたを意識していたようだ。彼にとっては、この子の存在よりもまずあなたの登場が厄介だったに違いない。おまけにラシュの乱入。ああ、ガラフィーの裏切りもそうかな。計算狂いが相次ぎ、内心では頭を抱えていたのだろうと思いますよ。それはともかく、あなた自身についての推測を言うならば、策謀好きな商人でも簡単には手を出せない相手、周辺豪族の長か、あるいは貴人でしょうか」
豪族? 貴人?
よどみなく告げられたシャルの言葉に、アヴラルは目を回しそうになった。このさばさばとした雰囲気の女性が、そんなに偉い人なのか。
「どうしてそう思われたのかな?」
「随分余裕のある態度でしたからね。警備兵に捕まったとしても、身分を明かせばそうそう危害は加えられないだろうと読んでいたのでは」
「いや、参ったなぁ。私はよく腹の内が丸見えだと皆に叱られる。推測通り、確かにキカとは面識があるよ」
シャルの冷ややかな視線にもめげず、彼女はおおらかに笑った。
「私はグイレ=ベルエという。うん、実はね、豪族の長の、元妻なんだな」
元、妻?
何とも言えぬ沈黙が広がる中、グイレは照れたような笑みを見せた。
「一応は貴人といえるのかな。長だった夫がね、ある日決起して近辺の荒くれ者をまとめ、小国を作ったんだよ。ところがね、うちの元夫は偉くなった途端に慢心して典型的な成り上がりの王の道を歩んでしまってさ。数多くの美女を囲い始めるわ、圧政を敷くわで、次々と問題事が多発してね。好き放題豪奢をきわめるうちに臣下の諫言にも耳を貸さなくなったし、私も邪魔者扱いされてしまってついには追放の憂き目にね」
なんというか、呆気に取られるというか、いや、語られる内容の壮絶さに同情するべきなのか。
あまりにもさくさくと衝撃の事実を披露されたために、シャルでさえ口を挟めぬ状態だ。
「その後なぜか、夫と対立し始めた豪族たちが私のもとに集まるようになって、皆でふらふらとそこらを放浪していたんだが。いつまでも流浪の民でいるわけにはいかないし、折角だからどこかに落ち着ける場所でも作ろうじゃないかという話になって」
「……そうですか」
シャルがひどく遠い目をしてぽつりと告げた。
相当深刻な話だと思うがいいのだろうか、これほど呑気な口調で語られて、とアヴラルは益々心配になった。
「存続できるか否かの問題は別として、この時代、未開の地に旗を立てれば、一国の出来上がりになるしさ。夫の元に戻れぬのならば、己で自由に開拓するのもいいかなと。幸い、心強い豪族たちと同行しているし。豊かな他国の領土を武力で制圧するという手もあるだろうけれど、それをしては恨みを買うので嫌だな」
ぽかんとしてしまうような事情を聞いて、アヴラルだけでなくシャルも返答に窮するような顔をした。一国の王の妻だった女性が、これほど人懐っこく警戒心が薄くてよいのだろうか。
「ここだけの話、先程の従者、名をラシスというのだが、元奴隷なんだよ。うちの夫、奴隷の扱いが酷かったから、追放されるついでに連れ出してきたのだけれど、これが実に聡明で有能でね。私は元々植物の研究に力を入れていただけの者だから、利口なお前が女王となった方がいいと持ちかけたのに頷いてくれない。ゆえに今のところ、私が仮の統率者かな」
国の名前だけは既に決まっていてホナタという、自分が初めて成功させた新種の植物の名前と同じだ、と付け足し、グイレはどこか誇らしげに胸をはった。明らかに賛辞の言葉を待っている気がする。
これは……グイレの期待通りにすごいですねと賞賛していいのだろうか。それとも真面目に、国名とは占星術で決めたり本人の名の一部を使うものではと訊ねるべきなのか、一体どういった反応をするのが正しいだろう。
キカはこの逸話を知っていたらしくかすかに顔を引きつらせながら作り笑いを浮かべていたが、シャルは何も言えずに硬直していた。
「何の話をしていたんですか」
と、従寄を連れてきたラシスがいつの間にか戻ってきており、怪訝な顔をグイレに向けた。突飛な話に、しばしアヴラル達は放心していたらしい。
「いやいや、世間話というものだよ」
「なぜそこで恥じらっているんです」
ラシスは慣れた様子で軽くグイレをあしらい、早く従寄に乗るよう促していた。
なんとも微妙な空気の中で、ふとアヴラルは気づいた。もしかすると、うまくあしらわれたのは自分達で、うやむやのままに同行を許してしまったのではないかと。シャルも同様のことを感じたのか、少し悔しそうな目をして、アヴラルを見下ろした。
従寄を走らせる前にラシスが近づき、そこはかとなく哀愁を漂わせているシャルに囁いた。
「念のために二百万ラレィ、総主に渡してきました。僭越ながら、モルハイの住人に敵を作らぬ方がよろしいかと」
有能である、といったグイレの言葉は真実であるらしかった。シャルが目を瞑り、溜息を落とした。先程、シャルは恐らく、関わりを作らぬためにと探りを入れ、先に弱みを握ってこちら側に対する詮索をやめさせようとしたのだろうが、会話の主導権は途方もない打ち明け話によりグイレの手に落ちた。とどめのように、この二百万ラレィで否応にも、彼女らに借りを作る結果となったのだ。
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向かった先は、ガラフィーの住処だった。
しかし、あの恐ろしい呪術師が戻っている形跡は見つけられなかった。アヴラルとしては彼に関してあまりいい思い出がないため、できれば近づきたくなかったのが、シャルの頑な様子を見ると、とても口を挟める雰囲気ではないと分かる。
それほどまでにハルヒという青年が大切なのだろうかと、アヴラルは落ち込んだ。
まさか、彼を救うのが第一の目的で自分の存在はついでだったのだろうかと、益々悪い方へ考えが傾く。
「お前は向こうにいなさい」
庭の方へ回った時、シャルが振り向き、煩悶しているアヴラルに、従寄の側へ戻っているよう促した。自分だけがのけ者にされたような悲しい気持ちになり、アヴラルは絶句した。じわじわと目頭が熱くなってくる。
「あのね、お前のために言っている。嫌な思いはなるべく少ない方がいいだろう」
うちひしがれるアヴラルの額をつついたあと、微妙にたそがれた態度でシャルがそう言った。どういう意味だろう。たとえ嫌な思いをしてもシャルの側にいられれば嬉しいし、何も知らないままで終わらせたくない。
「僕、邪魔になりますか……?」
決意のもと、たずねると、シャルが困ったように肩をもんだ。自分で聞いたくせに、肯定の言葉を聞くのは耐えられないという恐れが生まれ、慌ててシャルの腰にしがみついた。
「寂しがっているのではないかな? 連れて行ってやろうじゃないか」
グイレがよしよしとアヴラルの髪を撫で、相好を崩して味方をしてくれた。とても寛容で優しい女性らしい。だが、砂の王を召喚するアヴラルが恐ろしくないのだろうか。
「甘ったれだね、お前は」
というシャルの呆れた声が聞こえ、アヴラルはぴきりと固まり目眩を起こした。やはり邪魔になっているのだろうか、それとも命令に逆らってばかりだからとうとう愛想が尽きたのだろうか。
「こら、また異様な想像を際限なく膨らませて絶望するんじゃない」
突然身体が浮いた。仰天して目を見開くと、すぐ側にシャルの端正な顔があった。抱き上げられたのだ。
「いいか、私が命じるまで、余計な真似はしないこと。守らなかったら次は置いてくよ」
アヴラルは必死に頷き、ぎゅっとシャルに抱きついた。ぽんっと背中を軽く叩かれる。地面におろされるかと懸念したが、アヴラルを抱き上げたままシャルは庭の隅にある小屋へと近づいた。
「出すつもりか?」
前方を歩くキカの質問に、シャルが小さく笑った。何を出すというのだろう。
触れる温もりに安心しながら、小屋の扉を開けるキカを見守る。好奇心を表情に乗せたグイレが彼の背後から小屋の中を覗き込んでいた。シャルも小屋の中へと足を向ける。
「!?」
アヴラルは辛うじて悲鳴をこらえたあと、シャルの首筋に顔を埋めた。
ユージュが中にいたのだ。
「出てもいいとさ」
キカの言葉と同時に、ぱしっと空気が割れた音が聞こえた。結界が消滅する気配だ。アヴラルは恐る恐る視線を巡らせた。結界の中にユージュは閉じ込められていたのだと、遅れて気づいた。
「……どういう気持ちの変化?」
自由の身となり立ち上がったユージュが、尖った声で告げた。
「餓死したくはないだろう?」
ユージュに負けぬほど冷淡な口調でシャルが返した。アヴラルはシャルに強くしがみつきつつ息を殺した。首筋に好意とは反対の温度を伝える視線を感じ、更に身が強張った。
「その子、よく助け出せたわね」
「まあね」
「……ねえ、リタルは?」
シャルは答えなかった。
「あんた、自分の子だけ助けて、リタルは見殺し!?」
掴み掛かるような勢いでユージュが叫んだが、それでもシャルは返答しなかった。
見殺しにしたんじゃない。シャルは呪術師だけれど、できないことだってある。たとえユージュを憎んでいたとしてもリタルに罪はないのだから、助けられる状況であったならばきっと行動を起こしていたはずだ。
「別にあたしを疎ましく思ってもいいわ、だけどリタルは関係ないでしょう!」
「あのなあ、それは少し調子がよすぎるってものだ。そもそもお前の悪巧みが事の原因だろう。この結果を招いたのは他の誰でもない、お前だ。シャルを責める理由にはならない」
キカが真面目な声で割り込んだ。アヴラルは戦々恐々としながら少し顔を傾け、ぐっと身を硬くするユージュの方へ視線を向けた。ユージュは怒りに似た感情を映す目を、シャルからキカへと移した。
「あたしは自分のためにこんなことをしたんじゃない! リタルのためよ、なのに!」
「だったらシャルも同じだろう。この子を救い出すために動いた。お前と何が違う」
「違うじゃない、何もかも違う!」
まるで悲鳴のような訴えに、驚きや恐れよりも虚脱感が芽生えた。なぜユージュが過剰なまでにシャルを敵視するのか、その理由が分からなかった。
「ユージュ」
「何よ!」
シャルが不意に穏やかな声で名前を呼んだが、濃厚な怒りに囚われているユージュは叩き付けるような勢いで返した。
「私を少しでも羨む部分が?」
「……何ですって?」
「私の境遇を羨むゆえに、憎しみや怒りを?」
とても静かな声だった。一つ間違えば、ユージュを見下すための質問に聞こえるだろうが、その声音には濃い疲労感がまとわりついている。
「だがユージュ。おそらく、私の方が、より強くその感情を持っているだろう」
「――仕返ししたいって意味?」
「違う。前に、呪力について話をしたね。私を羨ましいと言っていただろう? けれども、私こそユージュを羨んでいるようだと分かった」
「何を言ってるの?」
「最初は、なんて我が儘で身勝手な女だろうと思った。それでも、たとえ他人を無慈悲に蹴落としてでも、己の求めるものを追えるのは目映くもあった。憎まれること、身に跳ね返る傷、負を恐れず、迷いなく進むその姿。邪悪の中に光輝がある。どれほど鮮烈で潔いか」
「それって同情とか慰めの類いなの」
「違うと言っている」
シャルは挑むかのように、凛と顔を上げてユージュを見据えた。だが、それは一瞬だけのことだった。
「私は口に出せないんだよ、ユージュのように」
ユージュが怪訝な顔をした。
「そう、言えないのだ」
一方シャルは向けられる視線から逃れるように、ひどく苦い表情を浮かべて俯いた。
「自分がどのように弱いのか、何を最も求めるか、それを口に出せない。羞恥や向上心などではなく、ただ強い、眩むような恐れのために、決して言えない。たとえ冗談まじりであっても」
シャル?
正しくは分からない。
分からないけれど、もしかするとシャルは、喪失を恐れるあまり誰にも本当の願いや弱みを見せられないのではないか。
「……よく分からないわ」
「そうだね、私もなぜこれほどユージュに憎まれるのか、分からない。ならば、ユージュにも私の考えは分からないのだろう」
ユージュは一瞬呆れたような顔をしたけれど、すぐに険を含ませた表情に戻った。
「誤摩化そうとしないでよ。リタルはどうなって」
「絶対とはいえないが、無事に助け出されたのではないか」
「え?」
「いや、半々の確率かな」
「ちょっと、確率を低くしないでよ!」
ユージュの焦った声を聞きながら、シャルの言葉の意味を理解すべく思考を巡らせる。そういえば、ガラフィーがハルヒという青年の他、数人の子供たちも救出し逃亡したと館主が言っていた。
他の子達よりも多く会話をしたリタルを、ハルヒという青年はよく覚えているだろうと思う。ならば、彼女も共に助け出された可能性が高かった。
「ついておいで」
「もし助けられていなかったらどうするのよ」
シャルが溜息を落とし、アヴラルを抱え直した。
「その時は、リタルを購った者を探して襲撃すればいいだけだろう」
当然のように答えたシャルへ皆の視線が集まり、束の間奇妙な沈黙が訪れた。
「私ならそうする」
「襲撃って……あたし一人でどうやれって」
「あのね、ユージュ」
シャルがいきなりアヴラルを床におろしたあと、わざと足音を立てるようにして、つかつかとユージュの方へ歩み寄った。ユージュはぎょっとしたように後ずさったけれど、それでもシャルは更に近づいていった。
「な、何!」
小屋の壁際までユージュを追いつめたシャルが、彼女の頭の上をどんっと拳で叩くようにして腕を置く。アヴラルがそうされたわけではないのに、血の気が引いた。今のシャルはきらびやかな恰好をしているためか、そのような態度を取られると普段よりも威圧感というべきか、怖さが増す。
「私だって腹を立てているんだ。巻き込みたいんだったら、せめて、『お願いします』の一言くらい口にするべきでは?」
「巻き込むって」
「私は聖人じゃないが、正視できぬほどの悪党でもない。リタルを助け出したいというならば、反発し策を巡らすより前に、言うべきことがあるだろう」
こちらの耳にまで届くシャルの声が、異様に低い。一体どんな顔をしてその言葉を言っているのか、後ろからでは分からないが、少なくとも至近距離では絶対に聞きたくないとアヴラルは真剣に思った。
「怖えよ、シャル……」というキカの弱々しい呟きが聞こえた。なんとなくだがグイレ達も微妙に視線を泳がせている。
先程よりも緊迫した沈黙がしばしの間続いた。
「……」
やがてぼそりと、不明瞭な、小さな声がアヴラル達のところまで届く。
シャルが壁から手を離し、こちらに向き直った。平然とした顔ではあるが、壁際に追いつめられて身を縮めているユージュの青ざめた様子を見ると、やはり相当恐ろしかったらしい。
そうか、とアヴラルは安堵の吐息を落とす。騙し合いをして互いに傷つくような方法ではなく、一言『助けて』という言葉で手を取る術もあるのだ。シャルが言いたいのはそういうことなのだろう。
時々、助力を求める言葉を口にするのは、とても勇気と覚悟がいるけれど。簡単なようで難しい。しかし先程、シャルはユージュのことを、負を恐れず迷いなく「言える」人間だと評価したのだ。
「とりあえず、思いつく限りの場所を探す」
シャルの言葉に、皆がほうっと息をついた。
ふと気がついたことがある。
シャルは、多分ユージュを嫌ってはいないのだろう。
いくばくかの好意を抱いているからこそ、逆に意地悪な態度を取っているのではないか。
だとすると、シャルは結構、不器用な人間なのかもしれなかった。